Echoes

連載ロングハイク想起

ロング・ディスタンス・ハイキングの長いながい旅。
地球上のどこかで起きたある日のある記憶。

1いりぐち

image

何もないな。

首を横に振りながらサンテはそう言ってこちらを振り向いた。「本当に?」僕は自分の目で確認したくて、さっきまでサンテが覗いていた壁の狭い隙間に顔を近づける。壁は薄い鉄で出来ていて錆びついている。ゆっくり覗き込むと向こう側に見えたのは、空、雲、木、石、土・・・それだけだ。それ以外は何もない。ずっと先の方まで目を凝らしてみても人工物らしきものは何もなさそうだった。乾燥した大地が延々と広がっている。ハリウッド映画の中でしか見たことのない光景だ。「ここで人間は生きてはいけない。」僕は直感的にそれを理解できた。しかし、驚きはしなかった。なぜならその光景は壁の向こう側だけのものではなく、壁のこちら側と全く同じ光景だったからだ。2017年4月16日、午前7時23分。僕はパシフィック・クレスト・トレイルを北上ルートでスルーハイキングするために南の起点、アメリカとメキシコの国境に立っていた。

image

眩しい。

サングラスがバックパックの奥底にあるのを後悔していた。着ていたウィンドジャケットを脱いで地面に転がる自分のバックパック背面ポケットへ適当に押し込む。周りにいた同じく今日から歩き出す他のハイカー達は着々と歩き出す準備を進めている。「おまえも撮るか?」今朝、僕をサンディエゴ郊外からここまで送ってくれたトレイルエンジェルが声を掛けてくれた。スタート地点を示す石のモニュメント前でみんな順番に記念撮影をしているのだ。「ありがとう。」スマホを渡し記念撮影を終わらせた。改めてモニュメントをじっくり観察してみる。手で触り、匂いを嗅いでみたりもした。なんの変哲もないただの石である。しかし、何故かはわからないが異様なオーラを放っている。これまでここを訪れた幾千ものクレイジーなハイカー達がオーラのかけらでも残していったのだろうか。このモニュメントは北側にもう一つ、ノースバウンダーの僕からすればゴール地点であるカナダとの国境に木製で同じ形のものが存在していると聞いていた。きっと同じようにカッコよくて異様なオーラを放っているのだろうと容易に想像できた。

image

イエーイ!

女の子二人組がハイテンションでスタートしていった。それを追いかけるように他のハイカー達も徐々にスタートしていく。モニュメントから北に向かってひょろひょろと伸びる細長いトレイル。「これを辿っていけばカナダにやがて到着する?そんなバカな。黒いアスファルトの舗装路がドーンと伸びているならまだしも、ただのけもの道にしか見えない。」脳内からクールな自分の声が聞こえる。確かにとても信じられない。しかしそれと同時に、もしこの道が本当に遥か彼方のカナダまで途切れずに続いているのだとしたら?そう考えると胸の奥底から何かがグワーっと湧き上がってきた。「確かめるしかない。」僕の鼓動はさらにスピードを速めていた。先程出発した女の子たちの姿はみるみる小さくなっていく。その後ろ姿をただじっと眺めていた。やがてその後ろ姿は消えてしまった。

image

「はやくスタートしたい。」そう思いつつもまだスタート出来ずにいた。スタートするのは簡単である。ただ歩みを進めるだけである。一歩、また一歩と。ただ気持ちの整理がついていなかったのだ。ここに来るのをどれだけ楽しみにしていたことか。ビザを取得するのも大変だった。通じない英語で公共機関を乗り継ぎ、何とか辿り着いたこのスタート地点。しかしスタートすればあとはゴールするだけ。つまり、この楽しい時間の終わりに向かってカウントダウンが開始されるのだ。小学生だったあの日、待ちに待った遠足当日の朝になぜかちょっと悲しかった。それと全く同じ感情だ。訳が分からないのは自分でも自覚していた。しかしそれが正直な気持ちだった。

image

「シゲ、スタートしよう!」サンテはそう言ってバックパックを担ぎ上げた。完全に歩き出しのタイミングを見失っていた僕はその言葉に背中を押されて救われた。頭の中の霧がスーっと晴れて気持ちの整理がついたのだ。「うん、そうしよう。」僕はバックパックを地面から拾い上げ腕を通す。これから半年間、トレイル上で生きていくための道具一式と大量の水と食料が肩に食い込んだ。見慣れない形をしたペットボトルを口に運び水を流し込む。そして大きく息を吐いた。午前8時11分。僕はゆっくりとパシフィック・クレスト・トレイルの第一歩を踏みだした。

パシフィック・クレスト・トレイル(Pacific Crest Trail、略称PCT)
アメリカの長距離トレイルでアメリカ三大トレイルのひとつ。メキシコ国境からカナダ国境までアメリカ西海岸を南北に縦走する。総延長は4,000キロメートル以上に達する。

スルーハイキング(Thru-hiking)
長距離トレイルの全区間を1シーズン内に歩き切ること。

トレイルエンジェル(Trail angel)
ハイカーをボランティアでサポートをしてくれる人。食事を提供してくれる人、宿泊場所を提供してくれる人、車で送迎してくれる人など、その内容は様々。

ノースバウンダー(Northbounder、略称Nobo)
北上ルートでトレイルを歩くハイカーのこと。

テキスト・写真/丹生茂義

プロフィール

image

丹生茂義 自由に旅することをこよなく愛するハイカー。パシフィック・クレスト・トレイル、アパラチアン・トレイル、みちのく潮風トレイル等、国内外問わず気の向くままにハイキングを楽しんでいる。動物好き。DJ。

facebookページ 公式インスタグラム