Echoes

連載ドルイのきろく

山の上の城をめぐり歩く、
九州ドルイクラブのハイクレポート

4グスクを巡り、沖縄を知る

  • 今回登った城(グスク)
  • 今帰仁城  
  • 中城城  
  • 首里城  
image 今帰仁城の志慶真門郭(しげまじょうかく)

グスクについて

4月の沖縄本島は薄着にはまだ早く、少し風が吹けば肌寒く感じる。ただし城跡を巡り歩くにはちょうど良い時期だ。
琉球列島(南西諸島)にはグスクと呼ばれる遺跡が300以上あるという。
沖縄の歴史における「グスク時代(11世紀後半〜15世紀前半 ※諸説あり)」の初期に、聖域としての性格も持つグスクが出現。そして集落間の争いを経て按司あじ(豪族)の居城となったとされる。
その居城としての大型グスクは13世紀頃に発生し、「正殿(儀式用の建物)」と前面の「御庭(うなー・広場)」という構成が含まれる縄張りで築造された。按司の中から三大勢力が生じ、北山・中山・南山に分かれた三山時代(1322年頃〜1429年)にはそれぞれの王の居城として改築されたものがあり、それらの中に首里城や今帰仁城なきじんじょうがある。さらに三山が統一されて琉球國(琉球王国)となり、16世紀には首里城・浦添城・今帰仁城だけが残り、17世紀初頭の薩摩による琉球征服以降はそれらも軍事的機能を弱める。

沖縄には異なる歴史・文化があって、そこで発生したグスクという施設もまたやはり特殊なものだろうということを実際に訪れてみて強く感じた。

image 今帰仁城の外郭。蛇行する石垣が数百メートル続く。

今帰仁城

初日はタコライスを食べたり、読谷の「やちむんの里」に立ち寄るなどした私たち6名は、一夜明けてまず『今帰仁城(なきじんじょう)』に向かうことに。小雨が降ったり止んだりという天候ではあったけれど、運良く城内を見る間は傘もほとんどいらなかった。
駐車場から城跡に向かうとすぐに開けた丘陵の奥に大規模な石垣が見えてくる。下調べもしていたが、やはり実際に目の前にすると感動的な光景で、他に類が無いものだとすぐに感じられた。それは草の緑が映える、なだらかな傾斜の丘の上にそびえる長大な石垣だった。言葉にすると陳腐になるが「神秘的」だとも思った。当時の按司や王が「この地にこのグスクを作ろう」と考えたことに沖縄独自の美意識を感じる。

今帰仁城は12世紀頃に築城され、その後に北山王の居城として現状に近い規模にまで増築されたという。広大な城域にも驚かされるが、ここで印象的なのはやはり石垣で、その作りは「野面積のづらづみ」といわれる。
さて、下調べにおいて初めて知ったことの一つに「沖縄本島は(大別して)北部と南部で地質が異なる」というものがある。それは、島の南北で生成される過程が違ったからで、ここの石垣は「古生代石灰岩石」という硬くて重いものが使われている。城域を見ていると石を切り出したと思われる箇所があり、当地が石材の豊富な場所でもあったことがうかがわれる。硬い石だから加工が難しく、野面積みという、成形しきっていない石材を積み上げる手法をとったということだ。
その石垣がカーブを描いているのも特徴的で、防御側からの死角を少なくする作意がある。ただしそれが見た目にも美しく、主郭から外郭などを見下ろすと壮観だった。城跡を見ているのだけれど、やはりこれは城(しろ)ではなく城(グスク)であって、ただの軍事的な拠点ではないのだなと思った。前述のとおりグスクは祭祀的な側面もあり、城内には聖域である御嶽などもあったが、今帰仁城全体の雰囲気が穏やかで、険しさはあまりないなと僕は受け止めた。

image 今回のドルイクラブ一行。小雨が降っている中でパチリ。

数多く城跡を訪れているドルイクラブのリーダー、通称パイセンは「遠景は中世ヨーロッパの城みたいって思ったけど近くで見ると違いますね。意外と石1つ1つが小さい。しかもこんな高さまで積むのか…本土の築城技術より劣ると思ってたけど超えてるかもしれない。グニャグニャとした曲線壁は実際に見ると圧巻ですね。曲線のおかげで殺伐としてないし西洋はもちろん中国、日本本土にも類似した城は無いかもしれない。」ということだった。

昼過ぎまで今帰仁城を堪能し、近くで美味しい沖縄そばを食べた私たちは次のグスクに向かった。実際のところ大型グスクの城域は高低差もあって行動量もそれなりのものだった。しかし興味を持って自分の足で歩けば歩くほど、その遺構を知ることができるのは楽しい。

image 中城城正門。「加工の技術を見せつけるような積み方(パイセン)」

中城城

個人的にはこの『中城城(なかぐすくじょう)』を楽しみにしていて、代表的なグスクの中でも最も発達した縄張りだという。また戦争での被害が少なく石垣の状態も良好に残っているとのことだ。
今帰仁城では駐車場からなだらかに登っていくアプローチだったが、こちらはより山城然としており、小高い低山の山頂にある石垣群を見上げると早くも気持ちが高ぶってくる。

1429年の三山統一後、護佐丸(ごさまる)が1440年ごろに築造したと伝わるが、正確にはそれ以前からすでに存在した城に彼が増築の手を加えたものという。その歴史の積み重ねは石垣に現れていて、こちらでは三種類(古い順に野面積み、布積み、相方積み)の手法が見られる。
今帰仁城と同様に入場料を払って城域に向かうが、料金所から多少距離がありこちらでは送迎カートが用意されている。入場チケットには古いイラストが印刷されていて、それは幕末にペリーが来航した際に、まず沖縄に寄港し、その隊員たちがこの中城城を探索したときに描かれたもの。グスクの石垣の技法を讃える記録も残っているそうで、実際に目の当たりにすればそれも当然だろうなと思える。

カンジャーガマ(鍛冶屋跡)とされる西端の削平地は開けていて、私たちが来た方からは見えなかった海が見える。中城城は南東側が崖のようになっていて、当時貿易港であった屋宜港あたりを見下ろせる。そこから正門に向かうと石垣群が見られはじめ、先ほど見てきた今帰仁城のものとの比較も楽しい。本島南部の地質は「琉球石灰岩」からなっていて材質的に加工しやすいため、こちらの石垣は隙間の少ない石積み(布積み、相方積み)となっている。正門のあたりは石垣の隅(角)も直角になっていたりと、そのあたりは以前から見知っている近世城郭のものと近いし、正門から先の作りなどは細い通路を取り囲むようにして高い石垣が配されている。しかし南の郭(かく)などでは自然のままの地形なども残されていて、そのような区画ではなんだか和んでしまう。そう、やはり険しくないのだ。拝所も多数あって今でも信仰を集めているということで、グスクという存在の奥深さを感じさせる空間だ。

image 中城城のアーチ門。

一の郭に入る際のアーチ門も印象的で、そのアーチをくぐって視界が開けた先にはぐるりと石垣に囲まれた空間が広がる。その瞬間はただ感動するばかりで、歩を進めて周囲を見回しては「来て良かったな」と実感した。その一角には修復作業のものと思われる石材が積まれていて、聞けばアーチ門も近年修復されたものという。それまでは木枠を内側にあてがっていたそうだ。そうなるとアーチをくぐってその先を見渡す際の趣が違ったものになっただろうなと思い返す。
二の郭では石垣の上を歩ける箇所もあり、特徴的なカーブを描く石垣から空を見上げ、海を見下ろす。素晴らしい眺望だ。このタイミングでちょうど晴れてきたのも手伝って、とても気持ちの良い空間だった。
明治から戦前まではここに中城村役場が置かれたということで、普通に考えたら低山の上というのは不便なのではと考えるが、それを差し引いてもこのグスクが当地の住民にとって中心的な場所であったのだろうし、そうあり続けた理由もこのような体験をするとわかる気がする。

image 二の郭の石垣から中城湾を見下ろす。奥に知念半島が見える。条件が良ければ久高島も見えるのかもしれない。

この後も城内をくまなく歩き、三の郭では高さのある石垣に圧倒されたりもする。三の郭と二の郭の間には連絡路がないので三の郭は閉じた空間になる。「三の郭の意味としてはおびき寄せて周囲の石垣から射かけるのかな」などと考えを巡らせたりも。三の郭の東側もかなり開けた削平地で「これだと攻め手にとってずいぶん有利になるのでは」との違和感があったが、戦後にその辺りは整備されて公園になっていたということだ。
ここは今帰仁城と比べてより実戦的な作意を感じさせる一方で、グスク全体から受ける穏やかさや美意識は通じているなと思う。

パイセンの感想も聞いてみたい。
「念願の琉球石灰岩の城!実際に見て触りたいと思ってたんです。正門は特に加工の技術を見せつけるように色々な積み方してますね。美観的装飾な意味だと思いますが亀甲乱れ積みとか初めて見ました。そして1つ1つの石が大きいから全体がどっしりした印象ですね。どっしりしてるけど威圧感が無いのはやはりグニャグニャとした曲線壁に囲まれてるからでしょうね、いやー美しい!」

image 前田高地にて。沖縄戦における本島への上陸は私たちが訪れた4月に始まった。

この後も『前田高地』を訪れたりしたが、その時は雨が本降りになり東屋で雨宿りをすることになった。先に男性が一人いらしたのだが、その方はボランティアでここのガイドをされているそうで、しばらくお話が聞けたという良い巡り合わせも。前田高地は米軍からは「ハクソー・リッジ」と呼ばれた激戦地。同名の映画作品も近年製作され、凄惨な戦闘描写が話題になった。
ガイドの方の話にもあったが、太平洋側から来ると読んでいた日本軍に対し、米軍は裏をかく形で東シナ海側から上陸した。後日調べると上陸地は現在の読谷あたりで、前日訪れた土地であるし、今帰仁での事件のことや、中城城には米軍の指揮所が置かれていたことなど沖縄戦についての事柄をあらためて知る契機にもなった。

image 首里城の石垣を触るパイセン。戦後の復元によるものだが、見事な出来栄えだと思う。

首里城

那覇市内で宿泊した私たちは『首里城(しゅりじょう)』を見ることになった。時間的な制約もあり正殿や御庭など主要な建物が見られる有料区画には入らず、周囲を巡ることにしたが、それでも十分な規模感で、前日に見てきたグスクたちとはまさに別格という印象だ。昨年秋に復元作業が完了したということでタイミングも良かった。沖縄戦の際に日本軍はこの地下に司令部を設けていたので、米軍の艦砲射撃に遭い首里城は消失。それから73年。研究者や古老の記憶を頼りに復元してきたとのことだ。
前日に得たグスクの石積みの知識がここで発揮され、私たちは「これは相方積みだね」などと言い合う。相方積みの別称である「亀甲乱れ積み」を面白がったり、またパイセンは琉球國時代の首里城を舞台にしたあるマンガの話をしたりして、そのことを私たちは首里城とセットで覚えることになった(笑)。

琉球國時代に整備された街道を当地では宿道(しゅくみち)と言うそうだ。この首里城と間切(まぎり・現在の市町村)を結ぶ宿道は、戦争被害や戦後の道路整備で多くが失われたそうだが一部では昔ながらの面影を残す区間もあるという。各地にある御嶽も訪れてみたい。次に沖縄に来る際にはそのようなところをのんびり歩くような楽しみ方もあるのかな、などとこの稿をまとめながら考える。

今回訪れたグスクはどれも見応えがあり、その魅力も十分感じることができた。それ以外にも当地ならではの食事や風景、そして民芸品などを楽しんだ。そういえば移動中に何度も気になった墓地での混雑は、清明祭(シーミー)という風習だということだった。たまたまその時期に来た私たちには状況がわからず、頻繁に週末の墓参をするのかと勘違いしたが、沖縄の墓の独特な構えを含めて当地の信仰に触れる機会にもなった。
前回よりも山の要素は少なかったが、こうして城跡を巡り歩き、旅先の歴史を知ることの良さをあらためて感じさせてくれた沖縄の旅だった。

テキスト/内田タケハル 写真/高田英幸(a.k.a.パイセン)、松岡朱香、ヤマサキナミ、平一倫、池端純一

facebookページ 公式インスタグラム