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連載ドルイのきろく

山の上の城をめぐり歩く、
九州ドルイクラブのハイクレポート

5名護屋城 ようこそ隣の軍事都市へ

  • 今回登った城
  • 名護屋城  
image 名護屋城本丸大手門の石垣。巨石はもれなく正面目立つ所に配置。

名護屋城へ

12月某日、佐賀県北西部、唐津市鎮西町にある特別史跡「名護屋城跡」に行ってきた。
名護屋城跡へは7、8年ぶり。前回訪れたときは、城跡周辺に点在する大名達の陣跡を巡っただけで城跡は遠目で確認しただけだった。今回の訪問で石垣の積み方など当時の技術の一端をじっくり見られればいいなと思っていた。
九州ドルイクラブでは、主に山でかつて有った城の埋もれた遺構(土塁、石積みなど)を探し地図で確認して楽しむ登山をやっていて、九州各地の山城、城跡もよく巡っていた。しかし、なぜか日本100名城にも選ばれている名護屋城には足を運んでいなかった。
ご存知じゃない方の為にザックリと名護屋城の説明をしておこう。

image かつてこの風景は全国から集められた諸大名の陣で埋め尽くされ、ひとつの町を形成していた

16世紀末、豊臣秀吉の絶頂期、唐入り(文禄・慶長の役)という朝鮮半島経由で中国(当時は明帝国)に攻め入ろうとした事があった。結果、朝鮮半島全土で泥沼の戦争になるのだが、その最前線基地として築かれたのが名護屋城だ。もちろん総大将である秀吉もいつでも朝鮮半島に渡海できるようにここに長期にわたって滞在することが予想されたので、名護屋城は大坂城に匹敵する規模と豪華さで築かれている。そして、船で名護屋城→壱岐→対馬→釜山を安全かつ最短に進もうと思ったら、佐賀県の北西端に位置するこの地が最も適している。 朝鮮半島に渡った兵は20万と言われてるから、何もない漁村に大規模な城と人とで突如として町が出現した訳だ。まさに土木好きの豊臣秀吉らしい。結局、一進一退の戦いが6年続き豊臣秀吉の死と共に唐入りは終結、名護屋城はその役目を終える事になる…などと、車内でこんな事を話しながら現地を目指した。

image まずは博物館でしっかり予習することが大切

仕掛けにハマりながら進む

到着後にまず向かったのが城跡に隣接する「名護屋城博物館」だ。
予備知識なく、直接、城跡に訪れてもあまりイメージは湧かない。大事なのはその城や町の成立ちがわかる歴史資料館などであらかじめイメージの種をアタマに植え付ける事だ。ふと目に入る地名など普段疑問に思わない事が気になり始めると準備万端、より深くその土地の事を知る事ができる。 博物館の中央に鎮座するのが縮尺1/300名護屋城と城下町及び大名布陣のジオラマだ。 俯瞰で見る分かりやすさ、しゃがんで目線をジオラマと平行にすると高低差も一目瞭然。 子供の頃、この手のジオラマが大好きで「城シリーズ」のプラモデルをよく作っていたのでついモデラー目線で見入ってしまう… この復元ジオラマだけでも見る価値がある。
一通り周辺の成立ち、名護屋城の在りし日の姿を目に焼き付け名護屋城跡にいざ出陣! (アプリ「VR名護屋城」、博物館無料貸し出しのタブレットでかざすだけでVR映像を楽しめるがあえてスルー)

image 在りし日の名護屋城と城下町復元模型。全体を目に焼きつける!

天守へは複数のルートがあるが、今回は大手門より三の丸を経て本丸へ。大手門に向かう途中からもうすでに石垣に次ぐ石垣! 向かう先は石という石に囲まれている、素晴らしい眺め! 目に焼きつけておいた復元ジオラマを透かして、名護屋城の在りし日の姿が見える!バーチャルな映像が最新技術に頼らなくても自分には拡がって見えるのだ! 同行のハッピーハイカーズ発起人の豊嶋さんもあちこち眺めてニヤニヤしている、ちゃんと見えてるみたいだ。 ここに大手門がこういう風に建ってたとか、この石垣の上がこうとか、この空間にはこういう建物があったとか、90度ずつ曲がりながら門を抜ける理由とか、いわゆる話が弾むというやつだな、楽しい。こんな話をしながらなのでちっとも先に進まない、見どころ満載で先に進めないのだ。登山と同じで天守(頂上)にただ向かうのではなく、こういう過程がとても大事だと思う。方角を気にしながら進まないと石の壁とクランクのせいで今いる位置が分からなくなる感覚なんて、こうして実際に歩いてみないと気づくことはできないだろう。築城者の仕掛けにハマりながら進むのも大事な過程の一つだ。

image 大手門をくぐり脳内バーチャル映像を元に当時の状況を話す豊嶋氏。

石はウソをつかない

ここで名護屋城しかない石垣の特徴を書かせてもらうとすれば、「意図的に最小限で最大限の破壊」 がされている事だろう。どういう事かというと、全ての石垣の四隅(コーナー)と天端石(てんぱいし、石垣最上部に積んだ石)のみが破壊されいる、これが最小限の破壊だ。この最小限の破壊によって石垣上部に建物が建てれなくなる、土台として踏ん張れない。そして全石垣の面ほぼ等間隔でV字型に崩れ落ちている。部分的な破壊が石垣にとって致命的なものとなっている、これが最大限の破壊だ。この意図的な破壊を含めて整備保存されているのは名護屋城しか知らない。石垣が意図的に破壊された理由は、すでに書いたように、豊臣秀吉死後に唐入りも終わり前線基地として存在の意味が無くなったからなのだが、実は九州ならではと言えるもう一つ重要な理由がある。それは当時、危険視されていた多数のキリシタンによる軍需再利用を防ぐためだ。実際に島原の乱の後に更に破壊が加えられている。

image 石垣四隅の崩壊風景。この野ざらし感がたまらない。
image V字状に崩された石垣。石垣にとって致命的な破壊となる。

話が逸れてしまったので元に戻そう。大手門→三の丸→本丸大手門と進むとパッと開けた場所に出る、本丸ゾーンだ。
地面を見ると当時のままの建物の礎石、かつてあった建物の敷石が整然と配置してあることに気がつく。配置状況からかつてどんな建物がここにあったのか分かりやすく示す表示板があるので一つ一つ確認しながら見てまわる。ここが台所、廊下があって、きっとここが大広間…、礎石の間隔でおおよそわかるのだ。石はウソをつかない。
最奥の突端、海側にあるさらに高台がかつてあった天守跡だ。高台に登って海側を見てみると晴天も相まって彼方に壱岐がよく見える。薄っすらとだが対馬の山並みも。思ったよりも近いことに驚く。しかも対馬から釜山まで50kmだ。この天守台から見れば朝鮮半島はすぐそこだと思えてくる。振り返ると入り江に船が停泊しているのが見えた。かつてこの入り江から数百艘の船が朝鮮半島に向かって進軍していたんだと思いながら眺めた。今となってはただただ静かな港町の景色があるだけだった。

image 天守台からの風景。正面に薄っすらと壱岐、対馬が見える。

ファクトとして城跡

石垣の魅力とは何だろう。小さい頃から城が大好きだった。立派な天守も好きだがそれ以上に離れて見る石の密集した要塞感に心惹かれた。城によって石を加工してビッシリと積まれた所もあれば、素朴に天然石を積み上げた所もある。自然と城と積み方の名称も覚えていった。城を守るためにどれだけの労力と手間をかけるのか。命のやり取りの最前線だからこそ労力を惜しまないのだろう。今では想像もできないが、現実に城跡にはリアルにそれが残っている。僕はそこが魅力だと思っている。
大人になり山を歩くようになってからは、低山の山頂や山腹でたまに出くわす打ち捨てられた城の遺構の虜になった。山全体が要塞? 土塁、曲輪、切岸、堀切、竪堀、空堀など、本来、城とは山を改造して要塞化するものだったのだ。

image 石垣中央でこの日も整備点検、保存のための見えない苦労。

各県に200以上は山城が点在しているという。皆さんが登っている山が数百年前は城だったかもしれない。急に登ったり降ったり、不自然に絶壁だったり、開けた場所に出くわしたりする不自然な地形。それがヒントかもしれない。
現存するものや復元された城には、復元や保存をする過程でのバイアスがかかるが、城跡にはバイアスが無い。つまりファクトとして残っている。 せっかく山に行くのに歩くだけでは勿体ない。想像力で地形を見るとまた違った楽しみがある。
だって何百年経とうと地形は裏切らないから。

テキスト/高田英幸 写真/高田英幸、豊嶋秀樹

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