Echoes

連載役に立たない道具の話

機能やスペックは出てこないモノ語。
けれど山道具には、それ以上の“役割”が、きっとある。

5「登山靴」誰かの登山靴、履いてみたことありますか?

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山あるあるはたいてい、ないない。

「間違われないように自分の靴には目印を」。初めて山小屋に泊まった際、そう教わり、「そんなばかな…」と思った。そんなバカは自分だった。
数年前、南アルプスを縦走した。椹島ロッジを出発し、荒川三山、赤石岳、聖岳へ、山小屋泊での3泊4日の縦走計画。これが初めての南アルプス山行だった私は、北アルプスとはまた違う、稜線へ出るまでのしっとりとした深い森にすっかり魅了された。どちらかというと、The山岳というようなドーンとした景色より、絵本に出てきそうな、魔女が住んでいそうな、道に迷いそうな森が好きだ。くじゅうでいえば、黒岳辺りとか、入山公廟辺りとか、立中山から大船山へ向かう辺りとか、吉部からの右岸側とか、山に“登る”というよりも、山に“入る”という感覚が好きだ。森と戯れすぎた我々は、初日の宿泊先である千枚小屋の最後の登山客となった。

image シラビソの森を進む。晴れより雨がいい山歩きもある

いつになくバテていた。最初にはしゃぎ過ぎたからだろうか。まだ行程の半分にも達していないのに、口数は減り、絶景を前に視線は常に足元へ。2日目になると、同じ行程と思われる登山グループと、追い付き追い越されるようになった。荒川小屋の水場に並んでいた時だった。後ろから「登山靴、同じですね」と声を掛けられた。普段ならば、山で話しかけられようものなら倍返しであれこれ答える。しかしその時は疲れが勝っており、その人の顔も覚えていなければ、なんと答えたかも覚えていない。ただ、「それが何か…?」というような態度を取ってしまったことだけは覚えている。それを後で激しく後悔することになるのだが。

image ヤマハハコ。足元の花々にも足を止められ、なかなか進めない

他人の靴で無事下山

2日目の宿泊先は赤石岳避難小屋。あと30分で到着というところで暴風雨にやられ、短時間でもみくちゃになり小屋へ転がり込んだ。そのせいもあってか小屋の中は、あの荒天を越えてきた仲間という連帯感のようなものに包まれていた。という気がしたけれど、それは天気のせいではなく、CWニコルのようなご主人のせいだった。名物親父のようで、3,000メートル上空でもばっちりメイクが決まっている奥さんの智恵子さんと共に、訪れる常連客に親しまれていた。
小屋じまいの直前だったため、ビールが安くなっており、のんべえのご主人と調子にのって飲んでいると、「高いところでそんなに飲んではだめよ」と智恵子さんにたしなめられた。「いないと思ったらここにいたのね」と、ちっとも働かずに隙をみては登山客と飲んでいる主人にも睨みをきかす。場が和んだところで、智恵子さんのハモニカ演奏が始まった。山小屋の小さなオレンジ色の灯りの下で、映画になりそうな時間が過ぎた。テント泊ばかりではこういう時間を逃す。翌日は、ご主人のアドバイス通り、小屋一番の早起きをして、まだ暗いうちに出発した。

image 夕方にはすっかり天気は回復した。来た道が赤く染まるアーベンロート
image ヘッドランプを点けて、後ろ髪引かれながら小屋を出発

3日目は聖平小屋に泊まり、翌日は10時半発のバスに乗るために、5時間はかかる下山路を、またもや早朝の暗い中、駆け下りるように下山。バスの発着所である椹島ロッジには随分早く到着し、ザックを整理しながらゆっくりと下界へ戻る準備をした。

登山靴を脱いで気付く。いつも入れているはずの中敷、スーパーフィートが入っていない。「私、スーパーフィート入れてなかった!入れても入れんでも変わらんってことやね」と仲間に言い放ったちょうどその瞬間だった。バスの発着所付近にたむろしている登山者に向かって、ロッジのスタッフが大声で呼びかけた。「靴を間違えて下山した人いませんか〜?」。
そこにいる誰もが、「そんなばかな…」と思いつつも、一瞬自分の靴を確認しただろう。私ももちろんそうした。そして青くなる。通常スーパーフィートは、購入した際に入っている中敷を出して入れ替える。スーパーフィートを入れ忘れるということは、中に何も入っておらず、靴の縫い目が見えるはず。しかし、私の靴の中には何か入っているのだ。そこで記憶は、「登山靴、同じですね」と声を掛けられた2日前に飛ぶ。

小屋でのコミュニケーションは我が身を助く

説明しよう。どうやら私は、早朝の赤石岳避難小屋を出る際、真っ暗闇の中で、靴の棚から私と全く同じ他人の靴を持ち出して履いたようだ。サイズも奇跡的に同じ23センチ。間違えられた方は、スーパーフィートが入っていたためにすぐ気付いたのだろう。そして、その間違えた相手が、水場で声を掛けた、小屋でたいそう飲んでいたあの九州女だと確信したのだろう。そして、ことの成り行きを小屋の主人に伝え、機転を効かせた主人が我々の行程を予測し、下山口のロッジに連絡を入れ、手配してくれたのだろう。我々は赤石岳避難小屋で、「九州の人はやっぱり飲むんやねえ」などと言われ、本当は光岳まで行きたかったことや、行程について主人に相談し、それらの内容はおそらく、その夜小屋にいた登山客全員に伝わっていた。それが幸いしたのだ。ただの酔っ払いと思っていたご主人は、私たちのことをちゃんと覚えていて、行程も把握してくれていた。

image 日の出は5時半。富士山が見送ってくれた
image 昨日の雨が嘘のように雲が流れ晴れ渡る。しかし、この時すでに足元は人の靴

話は下山口のバス停に戻る。私は、全員が「そんなばかな…」と思っている集団の中から一人立ち上がり、ロッジのスタッフに蚊の鳴くような声で「多分、私です」と名乗る。多分と言ってしまった妙な強がりを今でも恥じる。ロッジの受付に行くと、メモ用紙が2枚用意されおり、1枚には「間違えられた方」と大きく書かれ、その下に達筆で住所氏名が記入されていた。ロッジのスタッフは、もう1枚の「間違えた方」と大きく書かれた紙を差し出し、無表情で「こっちに記入してください」と言った。

帰りのバスの中から靴の持ち主に詫びのメールを送ると、「スーパーフィートがなくて歩きづらかったでしょう」と私を気遣う返信が来た。何も知らず、のんきに2日間他人の靴を履いていた私と違い、人の靴と分かっていながら、それを履いて下山しなければいけなかった彼女はどんな気持ちだったろう。話は変わるが、私にこの恥ずかしい体験を蘇らせた本がある。イギリス在住のブレイディみかこさんが、人種差別や貧困など、さまざまな社会問題にぶつかる思春期の息子とのやりとりを綴った「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」。その本の中で著者の息子は、「エンパシーとは何か?」という試験問題を出題される。同情や共感など、自然に発生する感情であるシンパシーと比べて、エンパシーは「人の立場に立って想像することにより誰かの感情や経験を分かち合う能力」だという。息子は、エンパシーとは、「自分で誰かの靴を履いてみること」と答える。本を読み、私たちはお互いの登山靴を履いて、相手の経験を想像したのだ!と、過去の過ちを正当化してみた。

image 椹島ロッジの先の吊り橋。雨に濡れた緑が光っていた

うちで登ろう

そして今、山にも緊急事態宣言の波が。困った登山者をいつでも助け、受け入れてくれる山小屋が、登山者で溢れるはずの連休に閉まっている。何の心配もなく山に登られる日常を、1日でも早く取り戻すために、私たちにできることは何だろうと考える。
昔、登山道具を売っていたとき、今はもう登れないけれど、こうして山道具を見ているだけで楽しいという年配のお客さんがいた。山雑誌を作っていたとき、忙しくて山に登れなくても本を見ているだけで登っている気分になれるという読者がいた。星野道夫は、そこに行く必要はなくとも、そこに在ると思えるだけで心が豊かになる自然があり、それらは私たちに想像力という豊かさを与えてくれると書いていた。山の図書館の重藤さんは、「よく読み、よく登り、よく書く。それが登山者」という松本征夫さんの言葉を大切にしていた。登山の楽しみはここにある。山にいない時間も登山は続く。これから登る山や、これまで登った山に思いを馳せる。本、映画、写真、仲間との思い出話、登らなくともそこかしこに山は散らばっている。星野源が「うちで踊ろう」と歌っていた。彼のいう「うち」とは「家」ではない。英語のタイトルは「Dancing On The Inside」であり、「at home」ではない。いつも心に山を。うちで登ろう。
2020年5月7日

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テキスト・写真/米村奈穂

プロフィール

imagePhoto by Miko Yoshida

米村奈穂 画材屋、山道具屋、九州・山口の山雑誌「季刊のぼろ」編集部などを経て、現在はフリーランスで風に吹かれながら九州の山を編集、執筆中。仕事しながら山が見える二丈岳の麓に引っ越して、引きこもり加速中。

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