Echoes

連載ロングハイク想起

ロング・ディスタンス・ハイキングの長いながい旅。
地球上のどこかで起きたある日のある記憶。

2言葉を超える

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1日の終わり

その日はとにかく疲れていた。2018年6月10日、午後6時7分。僕はアメリカ東部に位置するシェナンドー国立公園の森の中にいた。木々の枝の隙間から見える空はまだ灰色の雲に覆われている。3時間歩きっぱなしだった僕は、どこか適当な場所で休憩したかったのだが、適当な場所がなかなか見つからず森の中をひたすら歩き続けていた。森の中ならどこでも休憩できそうに思えるのだが、意外とそうではない不思議。「休憩っていうより、そろそろ今日のキャンプサイトを決めなくては。2マイル(1マイル=1.6キロメートル)先の水場でまず水を1リッター確保して、いいテントサイトがあればそこでキャンプ。無ければ6マイル先のシェルターまで、、、行けるか?、、、いや、行くしかないよな、、、ってか、ハラ減ったな~。」僕は今日の計画を今日の終わりに必死に考えていた。「とにかく、あと6マイルも歩けば今日は終わり。」と、適当過ぎる計画を僕は実行に移す。しかし数分後、はやくも計画は崩壊をはじめる。

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ウソだろ。

僕は違和感を覚えて、視線を足元からトレイル前方に向けた。30メートル先、そこには黒いカタマリ。それはゆっくりと動いた。間違いない。ブラックベアだ。一瞬動揺したが、今回、僕が歩いているアパラチアン・トレイルでは、既に何匹ものブラックベアに遭遇していたし、特にここ、シェナンドー国立公園では毎日のように見かけていた。だから、そこまで恐怖を感じることはなかった。ブラックベアは臆病な性格と言われているので人間を見ると大抵はすぐに逃げていく。逃げる前にと、僕は慌ててスマホを取り出し写真に納める。数分後、もう十分撮影が出来た僕は、未だにトレイル脇に佇むクマに向かって「あの~もうそろそろどこかへ逃げてくんない⁉」と、勝手な意見を投げかけてみる。するとクマは後方に視線を向けた。「えっ!通じた⁉」と思ったのも束の間、クマの後方から2つの小さな黒いカタマリが現れてトレイル脇の木を元気によじ登っていった。「ウソだろ、、、。」状況は一変してしまった。先程まで僕が対峙していた「森の中で出会った可愛い臆病なクマ」は、この一瞬で「やんちゃな子グマ2匹を育てる肝っ玉母ちゃんクマ」になってしまった。非常にマズい、、、。僕は生唾を飲み込みながら引き返すことを考えたが、戻っても数マイルは水場が無いことに気が付いた。できれば前に進みたい。森の中で前にも後ろにも進めず、僕はただ立ち尽くしていた。

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やっぱりダメか。

僕は母ちゃんクマから目を逸らさなかった。母ちゃんクマも僕から目を逸らそうとしない。お互いに、ただ見つめ合ったまま一歩も動かずにいた。何分経っただろうか、沈黙の森に、サーー、、、っというノイズが響く。しばらくしてポタポタと雫が森の中に落ちてきた。「この状況、何とかしなければ。」僕は横に生えている木にゆっくりと体を隠す。「もう人間はどこかに消えたと思って子グマと一緒にそこから移動してくれ!」そう願い、木の陰からゆっくり母ちゃんクマの様子を伺う。すると、母ちゃんクマは首を横に伸ばし、必死にこちらを凝視していた。「ダメか、、、。」僕は肩を落とした。首筋を伝って流れる水滴が冷たい。そしてまた、見つめ合いの気まずい時間が流れる。しばらくすると、今度は母ちゃんクマが木の陰に身を隠した。体がでかいので隠れ切れていないが、僕は母ちゃんクマの姿を見失わないようにと目を凝らす。それに気が付いた母ちゃんクマは、「やっぱりダメか、、、。」といった表情で定位置に戻った。お互いにこれといった打開策が思い浮かばず、ただただ、時間だけが無駄に過ぎていく。不思議と母ちゃんクマから敵意は感じられなかった。ただただ、「困ったなぁ、、、。」という空気だけが森の中を漂っていた。

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行きなさい。

一体どれだけ時間が流れたのだろう。気が付けば雨は止んでいる。子グマたちが登った木から降りてくる気配は全くない。「もう、引き返そう。ここは彼女たちの森、そもそも対等な立場ではない。それより早くテントを張って、温かいご飯を食べて、寝よう。」そんなことを考えていた。

「・・・しょうがないわね。行きなさい。」

何処からともなく優しい声がきこえた。いや、、、正確にはきこえてはいない、が、きこえた気がした。すると微動だにしなかった母ちゃんクマは子グマたちを木の上に残したまま横の茂みにノソノソと移動を始めた。僕は目の前の状況を理解出来ずにいた。その姿を見失うまいと必死に目で追っていた。が、やがて足音が止み、彼女の姿は確認できなくなってしまった。ゾワゾワっとして、心臓の鼓動が一気上がる。「いやいやいや、そんな訳ないでしょ。子グマたちはまだ木の上に居るし、母ちゃんクマはいつ茂みから飛び出してくるか分かんないしー」と突っ込む声が遠くから聞こえて、遠くへ消えた。確信は、ない。でも、進むことにした。なぜかは言葉で説明できない。

2時間後、僕はテントを張り、食事をし、寝袋に潜り込んだ。 その日はとにかく疲れていた。

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アパラチアン・トレイル(Appalachian Trail、略称AT)
アメリカの長距離トレイルでアメリカ三大トレイルのひとつ。アパラチア山脈に沿って南北に縦貫する。総延長は3500キロメートル以上に達する。

シェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)
アメリカのバージニア州にある国立公園で、公園内をアパラチアン・トレイルが通っている。

ブラックベア(American Black Bear)
生息地はアラスカ、カナダ、北アメリカと広範囲。体長140~180㎝、体重250㎏前後。
性格は比較的温厚。雑食だが植物の根、草、実を好む。木登りが得意。

シェルター(Shelter)
ATトレイル沿いに等間隔で設置されている無人の避難小屋。簡易的な造りのものが一般的。

テキスト・写真/丹生茂義

プロフィール

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丹生茂義 自由に旅することをこよなく愛するハイカー。パシフィック・クレスト・トレイル、アパラチアン・トレイル、みちのく潮風トレイル等、国内外問わず気の向くままにハイキングを楽しんでいる。動物好き。DJ。

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