Echoes

連載旅道具と人にまつわる
メモランダム

旅道具屋で出会った人を、
店主がこっそりと紹介する。
次に登場するのはアナタかもしれない。

2マダムサーモス

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金曜日の昼下がり

早いもので前回の話から約1年が経っていた。ということは、お店ができて1周年ということになる。あっという間である。
いつも遊びに来てくれる方、たまにしか来られないけど応援してくれる方、とにかく色んな人に出会った1年だった。本当にありがたい。勢いではじめたから何もかも手探りだったけど、たいていのことはやれば何とかなる、とありきたりだけどやっぱりそう思う。

今日は金曜日の昼にたまに来るマダムの話。

image マルハチ珈琲焙煎舎のお豆

最初に来たときも金曜日で、その曜日は私がひとりで店番をしていることが多い。オープンして誰も来ないな〜と思っていたころに、ドアが開いた。とても上品な感じの女性。年は私よりもずいぶん上なんだと思うけど、お世辞抜きで若く見えるし、お洒落である。これはマダムと呼んでも異論はないと思う。

マダムはドリップコーヒーをオーダーして「マルハチさんから教えてもらったの!」と言った。マルハチさんとは北九州市戸畑区にある「マルハチ珈琲焙煎舎」のことで、ホウホウで使っているコーヒー豆はここのだ。マルハチのミヤコさんはいつもお客さんを紹介してくれる。だからうちもコーヒーを飲んでくれる方には決まってマルハチを紹介する。
マルハチの話をしながらドリップをしていたら
「トーストもあるのね、そしたらはちみつバターを」と。どうもお昼ごはんがまだだったみたい。

焼き目のついたトーストをかじりながらマダムは言った。
「私ね、山に行きたいと思ってるんだけど、何からはじめたらいいかしら?」
さっそく私はだいたい必要な道具を挙げ、それから住んでいる場所をたずねて、近くの低山をおすすめした。そしてスマホは使っていますか?と聞き、地図アプリのYAMAPをインストールするようにおすすめして、簡単な使い方をお伝えした。

「コストコに買い物に来た帰りにはいつもマルハチさんに寄ってたけど、これからはここにも来るわ」そう言って、コーヒーを飲み終えたマダムはサッと会計して帰っていった。

image 店ではしばしば見られる妄想登山の様子

道迷いとコーヒー

次に来たときもマダムはコーヒーとトーストをオーダーしてくれた。
「くじゅうに行ってきたのよ!」と興奮気味に話し始めた。
ええ!すごい!と聞く私。どうやらモンベルのツアー参加で旦那さんと一緒にくじゅうを歩いたらしい。はじめて見る地元の低山とは違った風景を伝えるさまは、どれほど楽しかったのかびんびんに伝わる。自分がはじめてくじゅうを歩いたときのことを思い出しながら、うんうんと聞いていた。

「その日はくじゅうの山麓に宿泊したんだけど、他にも行ってみたかったから、次の日も歩いたのよ!」
ええ!意外な展開にちょっとビックリ。聞くと長者原から雨ヶ池付近まで歩いたところ、旦那さんが疲れたから引き返したそう。ところが引き返しての帰り道で道に迷ってしまったらしい。

「あなたの教えてくれたYAMAPっていうの、うまくできなかったから使っていなかったのよ…」ばつが悪そうにマダムは言った。
ええ!さらに意外な展開にもっとビックリした私。それから道迷いしながら旦那さんと軽く口論になったこと。途中で離れたところを歩く登山者を見つけて事なきを得たこと、帰れなかったら娘たちになんて言われるかとハラハラしたこと。こっちもハラハラしながら聞いていたらトーストが綺麗になくなっていた。
お茶飲みます?とルイボスティーを差し出した。私はお茶を飲むマダムに再びYAMAPの説明をした。そしたらマダムは、
「私はもっと山に行きたいけど、主人があんまり乗り気じゃないのよね。」
と口をへの字にして言った。年齢が上の旦那さんはあんまりきついのはイヤらしい。

お茶を飲みに誘ったらいいんですよ。おいしいお菓子を持って。
私がよく初心者の方におすすめする必勝法だ。べつにキツい思いをしなくても自然の中にいるだけでいい。少し歩いて、気持ちの良い場所を見つけたら、そこでコーヒーを飲む。それだけでいい。私が登山を始めたきっかけがそう。マンガ『岳』で主人公の三歩が、山でコーヒーをおいしそうに飲むシーン。あれをやってみたい…、そう思ったのがはじまり。
さらにおやつがあったら100点満点。旦那さんは甘いもの好きですか?とたずねた。

「甘いもの好きよ。それいいね!でもわたしバーナーとか持ってないし…」
と言うので、水筒だったら何でも良いですよ。例えば…と、お店に置いてあるサーモスの山専ボトルを持ってきて説明した。
年配の人、特に女性はわざわざ日帰り登山でガスバーナーなんて使わないという人はけっこう多い。サーモスのような保温ボトルがあれば、お茶やコーヒーはもちろんのこと、カップヌードルだって食べられる!(私はシーフード派)

「じゃあそれいただくわ!ありがとう」
そう言って、マダムがはじめて買い物してくれた山道具はサーモスだった。なんだかうれしかったので、店頭にあった賞味期限が近いドリップパックをプレゼントした。おまけにコーヒーを飲むのに良さそうな低山を教えたところで、晩ご飯の支度があるからとマダムは帰っていった。

image 山で飲むコーヒーはなぜかおいしい

こういう瞬間が好きだ。山を知ることで人生が豊かに変わっていく瞬間。
私自身がそうだったように、山を知ると心が豊かになる。そのお手伝いができるのはなんともうれしい。山をはじめたころの自分は想像もしていなかった未来を、今やっている。店を出たマダムを見送りながら、おいしいコーヒーを飲めるといいな、と思った。

それでもマダムは行く

この話には後日談がある。 先日ひとりでミヤマキリシマを見に、くじゅうに行ったマダムは、帰りに再び道迷いをしてしまったのだ。すがもり越えから長者原へ行く途中、作業道からトレイルに入った後のあたり。背の高い木があるような森ではないけど、その分マーキングは少なく、土砂崩れが頻繁にあったから踏み跡がしょっちゅう変わっていて確かにわかりにくい。

「YAMAPは使っていたけど、GPSが狂っていて、全然違う場所を指していて使い物にならなかったの!」
ええ!また迷っちゃったんですか!と若干慣れっこになりつつもビックリ。
とりあえずお茶を飲んで、気持ちを落ち着けてから、家族に電話したそう。道がわからなくなったけど無事だから心配しないで、と。もし夜までに帰らなかったら、警察に連絡して探してちょうだいと。
それから周囲をウロウロして考えた結果、来た道を登り返した。そうしたら遠くに登山者が見えたので慌てて駆け寄ったそうだ。

「道に迷ったとき、家族の顔と、あなたの顔が浮かんだわ〜」と、笑いながら言われたけど、私の顔が浮かんだ状態で遭難しなくて本当に良かった…。

「でもね、どうして迷っちゃったのかどうしても原因が知りたくて、その翌週にもう一回そこに行ってみたのよ。」
ええ!もう一回!?と驚きはしてみたものの、その発想は良いと思った。すごく良い。自分の意志が感じられる。

「家族からは猛反対されたけど」 それでも行ったマダム。しかも2週続けて。

「今度、アルプスに行くの。もうツアー申し込んじゃった!燕岳と焼岳!」 ええ!2座も!毎回想像を超えるビックリに、私は驚きを通り越して吹き出してしまった。

マダムは残ったコーヒーを飲み干すと、ワクワクしてたまらないという表情で微笑んだ。

【今回の旅道具】

image サーモス 山専ボトル 500ml
価格:¥6,050(税込)
熱い白湯を飲むにはコップが必須。直飲みするとやけどします(笑)
冬場だけじゃなく年中頼りになる大定番。

テキスト・写真/渡邉祐介

プロフィール

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渡邉祐介(わたなべ・ゆうすけ) 2020年6月、北九州市小倉北区に「旅道具と人 HouHou」というショップを勢いで作る。本職はグラフィックデザイナー。クラフトビールとサウナを愛する山おじさん。
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