Web Magazine for Kyushu Hikers Community
MoonlightGear福岡店の店長が綴る
現在と空想の汀を旅する山行記
久しぶりの雨。
外を見なくても、匂いでわかる。
思わず家を飛び出して、
濡れた道を駆けていく。
いつもの通り道にできた水たまりに、
落ち葉や小枝を浮かべては、
それを船に見立てて遊んでいた。
身長がまだ100cmにも満たなかった頃。
地面がすぐそこにあって、
今ではもう見えないような世界が
足元に広がっていた。
泥の柔らかさに指先が沈むたび、
まるで違う世界の扉をノックするような気持ちになっていた。
夢中で遊んでいるときは濁っていた水面も、
ふと立ち止まって眺めると、
次第に透き通っていき、
底が見えてくる。
その小さな世界の中に、
自分だけの宇宙が広がっていた。
晴れた日には木に登るのが好きだった。
たまに手に刺さる木片の痛みや、
高い枝から飛び降りたときのドキドキ。
どれも、からだで覚えていく
自然の言葉みたいなものだった。
風の匂い、土のぬかるみ、
ふとした光や音。
五感が研ぎ澄まされていく中で、
心は自由に、のびのびと遊んでいた。
いま思えば、
あの水たまりの奥にも、
風に揺れる木の枝にも、
僕の感覚を目覚めさせてくれる
なにかがあったのかもしれない。
社会人になってから、
日々の暮らしに引っ張られるようにして
街に根を下ろしていった。
都会の生活はとても便利で、
スイッチひとつで部屋が明るくなり、
お腹が空けばすぐに食べ物が手に入る。
そんな暮らしに慣れていき、
快適さも好きになっていた。
やがて、建築写真に夢中になり、
洗練された構造物を追いかけて
カメラを片手に移動を繰り返すようになった。
ある日、ふと立ち寄った阿蘇。
目的もなく撮った自然の風景。
それは、整いすぎた都会の建物とは違う、
どこまでも自由で、圧倒的な存在感だった。
気づけば、山へ足を運ぶようになり、
もっと広い景色を求めて
上へ、上へと向かうようになった。
服装はVansに501。
装備も知識もほとんどなかったけれど、
それでも自然に惹かれていた。
数ヶ月後、
いつものように山を歩いていたけれど、
その日はカメラを持っていなかった。
ただ、山に会いに行っていた。
そのとき初めて、
「写真には映らない感覚」があることに気がついた。
壮大な景色は、
レンズ越しに切り取るものじゃなくて、
身体の奥深くに沁みわたってくるものだった。
まるで、
心に直接光が差し込んでくるような、
そんな体験だった。
自然と向き合うようになって、
改めて思うのは、
僕は人にとても恵まれていたということ。
山の楽しさや奥深さを教えてくれた人たちは、
自由に生きることを自然体で体現していた。
デナリやアフリカの山を登った人と、
福岡の低山を歩いたときのこと。
何度も登っているはずのその山を、
まるで初めてのように楽しんでいて、
その瞳は子どものように輝いていた。
また、モンゴルの遊牧民と旅をし、
世界中の部族と暮らしてきた人は、
山に入るときの心構えや自然との接し方を
そっと静かに教えてくれた。
二人に共通していたのは、
「正しい・間違っている」と決めつけないこと。
ただ、自分の経験や楽しさを、
まるで物語のように語ってくれるだけだった。
その姿に、僕の好奇心はくすぐられ、
「自分もやってみたい」と自然と思うようになった。
でも、山の世界には、
「正しさ」を押しつけてくる声もある。
「こうじゃないとダメ」、
「それは間違っている」、
もちろん、命に関わる場面では、
注意や助言はとても大切。
けれど、いつしか、
「自分で考える」ことよりも、
「従う」ことが優先される場面が、
増えてきたようにも感じている。
SNSでは、ルールを知らなかった人が、
晒されてしまうこともある。
それによって自然から遠ざかってしまう人が、
いたとしたら、少し悲しいことだと思う。
「山ではこれってダメなんですよね?」、
そんなふうに聞かれたとき、
僕はよく「どうしてそう思ったの?」と返す。
すると多くの場合、
「誰かに言われたから」「決まりだから」、
という答えが返ってくる。
でも自然は、本来もっと自由な場所。
自分の感覚を信じて、選んで、
ときには失敗して、そこから学ぶ。
それができるのは、
自然という教室だからこそだと思う。
人は、失敗する。
でも、だからこそ学べる。
頭で考えたことを、身体で実感できること。
それが自然と遊ぶということの、
何よりの価値かもしれない。
「こうすべき」ではなく、
「どう感じたか」を伝え合えること。
それができれば、
きっと自然との向き合い方も、
もっとやわらかく、もっと深くなる。
マナーが足りない人を見かけたときも、
まずは立ち止まってみる。
「どうしたら、この魅力が伝わるかな?」
そんな視点に立てたとき、
きっと自分の心にも余白が生まれる。
登山文化は、たくさんの人たちが
考え、語り、行動してきた積み重ね。
一つの価値観で良し悪しを決めてしまえば、
その文化は育たなくなってしまう。
標高が高い山を登った、長い距離を歩いた、
それはすごいことだけど、だからって偉いわけじゃない。
大切なのは、
自然を愛する気持ちがあるかどうか。
植物も、動物も、人も。
命あるすべてを含めた自然の中で、
どう感じるか。
正解ばかりを探していると、
自由がどんどん小さくなっていく。
だから僕たちは、
もっと感覚を使っていい。
風が冷たいと感じること。
木の葉が濡れていると気づくこと。
水の流れが、今日は静かだと知ること。
その一つひとつが、
「生きている」という実感につながっている。
たとえ初めてでも、経験が少なくても、
SNSの声をすべて基準にする必要はない。
自分の足で歩き、目で見て、肌で感じる。
その感覚を信じて、
また一歩、山の奥へと進んでいけばいい。
ゆっくりでいい。
誰のためでもなく、自分の物差しで。
それが「自然の中で遊ぶ」ということ。
僕は、そう思っている。
テキスト・写真/横山誠二
プロフィール
横山誠二(よこやま・せいじ)
MoonlightGear福岡店店長
福岡県出身
線好き
美容師をやったり
建築の写真撮影など
線に対して強いこだわりを持つ。
山との出会いは写真をきっかけに
稜線に魅了されたから。
今年から雪板をスタート。
雪上にできた放物線に興味を持つ。