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Day 1620221121 / 晴れのち曇り

image 神々しいまでに厳かに、琵琶湖の湖面を朝日が黄金色に染めている。東側に琵琶湖、西側に若狭湾に挟まれた中央分水嶺を80km歩く『高島トレイル』は、ここが古の時代から特別な場所であったのだろうと想像力を掻き立ててくれる

「トレイル」という言葉が定着して久しい。メディアやSNSで、海外のハイキングやそのスタイルが紹介されるようになって頻繁に使われるようになったのだろう。それまでは、山や自然を歩くための道のことを「登山道」と呼んでいたはずだ。僕が山に行くようになった頃も「トレイル」という人は稀だった気がする。
時代をもう少し遡りながら、「山を歩くための道」について考えてみよう。
アメリカの「トレイル」が国立公園を中心に山や自然に親しむためにわざわざ作られたのに対して、日本の「登山道」はすでにあった道を利用している場合がほとんどだと聞く。

日本に「登山」というものが元々あったわけではなく、現在の僕たちのようにレクリエーションとして山を歩くようになったのは明治時代の中頃だという。それまでは山に入るのは、山岳信仰に結びついた修行のためであったり、杣人や川漁師、炭焼きや猟師といった人々が仕事の場として山に入ったり、そして峠を越えて里から里へ向かうなど、当時の人々の生活上の理由からだった。そのための道もそれぞれの営みにとって必要不可欠なものとして利用されてきた。
そこに、林業や治水関係、電線や電波の鉄塔管理などさまざまな作業道なんかも入り組み、現在の登山道の原型や一部となって、半ば自然発生的につながっていった登山道も多いらしい。

そういうわけで、この『高島トレイル』も例に漏れず、その昔は近江商人が荷物の運搬など暮らしの中で利用され、若狭湾と都を繋いだ「鯖街道」と交差する峠も多いとオフィシャルウェブサイトにも記載されている。
国破れてトレイルあり。
琵琶湖の向こうから湖面を黄金色に染めながら登る朝日を横に歩いていると、そんなフレーズが口をつく。人が歩くことによって作られた道は、さながらタイムトリップのように、古の人々が拝んだのと同じ朝日を僕たちにも見せてくれる。今ではトレイルと呼ばれるようになったその道をいく僕たちの一歩一歩が、ここを歩いた人々の歴史に足跡を重ねている。日本のトレイルはどこを歩いても、きっとそうなんだろう。そのパラレル感に不思議な気持ちがした。

テキスト・写真/豊嶋秀樹

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