Echoes

連載われらをめぐる山

トレランレースの運営やアクティビティを通して見えてくること、
我々をとりまく山をめぐるストーリー

2平尾台レース 始まりの舞台裏(第二話)

平尾台トレイルランニングレースがどのようにして始まったのか、という話のつづき。

この記事を書いている2023年のトレイルランニングを取り巻く状況と、このレースが始まった2009年~2010年の頃とはずいぶん様子が違う。
身近な感覚でいうと、アウトドアスポーツに興味のない人と話をするときであっても、今ではトレイルランニングというものの説明がいらない。それだけ認知度が広まった。
認知度の広がりと共にトレイルランニングをする人の数も増え、国内で開催されるレースの数は400近くとも言われている。そして100マイルレースの登場、テレビでその様子が放送されることも多くなったし、メディアの露出は格段に増えた。
15年ほど前の頃は、これからこのアクティビティ(スポーツ)が一般化していく始まりの頃だったように思う。

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第一ステップ

このレースの企画が最初に立ち上がったのは2008年の12月、第一話に登場した北九州市役所の重岡さんが、経済・雇用対策の職員提案として出したのがこの企画の始まり。
その時はこの企画が採用されず、お蔵入りになるところを当時の副市長の目に留まり、企画が動き出した。
その当時のトレイルランニングというスポーツの認知度の低さからすると、副市長の目に留まったというのは結構驚くべきことだ。「これは面白そうだ」という何か琴線に触れるものがあったのかもしれない。
ここでスルーされていればこのレースは開催されていなかっただろう。
それを考えるとこれは大きな分岐点だった。

第二ステップ

プロジェクトの進行構成は、
第一ステップ:計画立案
第二ステップ:大きな枠組みを決める基本計画
第三ステップ:関係者調整と交渉
第四ステップ:タスク実行
という流れだ。
2009年春、この頃から本格的なアクションが始まっていくことになり、実現に向けて具体的な企画が練られていくことになる。
まだこの時点ではチームとしては小さなものだったけれど、主には「総務」と「競技」の2つのワーキンググループに分かれて準備が進められた。
第三ステップの関係者との合意形成を図っていく前に、まずは基本計画を作っていく作業だ。
総務WGは、計画書の作成と今後だれとコミュニケーションを取っていくべきなのか、関係者の洗い出し作業。
競技WG(コース設計)は、ローカルのトレイルランナーである水町さんと私が中心となってロングコース40kmとショートコース17km、2つのコース設計をしていった。

image トレイルのリサーチ(水町さん)

プロデューサー就任

さて、レース作りにおいて全国から参加してもらいたいという思いがある中で、クオリティの高い運営をするためにはどうすればよいか、という話になる。
小さく始めてノウハウを積み上げ段階的に規模を大きくしていく、というプロセスもあったかもしれないが、最初の企画の段階から全国からの参加を目論んでいたということもあり、経験豊富なプロに助言を求める方法でレース作りは行われた。
プロデュースの役割を担ってくれる存在として、プロトレイルランナーの石川弘樹さんにお願いすることとなる。
重岡さんが最初にトレイルランニングレースの着想を得たのは、石川さんのイベントがきっかけであったし、日本のトレイルランニングというスポーツカルチャーが広がっていく黎明期の立役者であり、斑尾や信越でのレースプロデューサーとしても広く活躍されていた。
その当時北九州市の小倉にあったアウトドアショップ『Bross』オーナーの永松さんを通じて、石川さんにコンタクトを取り、そしてプロデューサーを引き受けてくれることとなった。
2009年5月に石川さんとの初めてのキックオフミーティングが設けられ、ここから本格始動のスタートが切られる形となった。石川さんに参画してもらえる事になり、平尾台レースプロジェクトはこの段階でしっかりとした屋台骨が形成されたように思う。

image キックオフミーティング(前列右端が石川さん、立ち上げメンバーと一緒に)

第三ステップ

2009年の夏以降、関係者との協議が本格化した。
第一話でも少し触れたが、地域との協働を重要なミッションとして掲げていたので、行政にも協力をお願いして地元の皆さんへの説明会を開催、コミュニケーションの機会を作っていった。
地元の方にとってみれば、馴染みのないトレイルランニングレースというものへのネガティブなイメージは当然あって、その溝を埋めていく過程では厳しい局面もあった。
平尾台はカルスト台地で希少な植物も多いため、自然保護の観点から平尾台の自然に精通している方にも協力を仰ぎ、何に気をつけ、どのトレイルであれば影響が少ないのかをアドバイスしてもらえることとなった。
環境保全指導員として活動されていた曾塚さん(故人)には、このレースの自然保護の取り組みとして、レースが与える影響を客観的に評価する手法を確立してもらった。
その手法は、トレイル幅が広がっていないかどうかの植生変化と、土壌硬度をレース前後で計測して多くのランナーが通ることで土壌にどのような変化をもたらすのか、特殊な機器を用いて測定する方法で調査を行うこととなった。
このような環境影響調査を行っているレースは他になかったし、法的なガイドラインもなかったので独自のものを作っていった形だ。
この環境調査は現在も継続して行っている。

行政とは国定公園に関係する部署や、小倉南区役所を通じて消防、警察との協議が行われた。
特に地元行政である小倉南区役所とは密接に連携して、開催に向けた準備が進められた。
このレースに関わり始めて初めて知ったことは多い。
その中のひとつに自然公園というのは必ずしも国や県の土地ではないということ。
つまり私有地がけっこう多い。
これがレースにどう影響するかというと、コースの案内標識を設置するにしても管轄する行政へ許可を求めるだけではいけない。
私有地であればそのすべてに持ち主への許可が必要になるということ。
法務局で土地の所有者を探し出して、案内板設置個所ごとに同意を得ていくという気の遠くなる作業。
ある1区画の土地が13人で共同所有、なんてこともあったり。
とにかく地味で時間のかかるこの作業を、小倉南区役所が担ってくれた。

image レースの準備を進めるメンバー達(甲斐さん、根笈さん、渡邉さん、酒井さん)

第四ステップ

年が明けて2010年の1月、プロデューサーの石川さんが北九州市市長への表敬訪問を行い、記者発表が行われた。
いよいよ1年以上かけて準備を行ってきたレースは、参加者を募る段階までこぎつけることができた。
開催は2010年4月18日と決まった。
私はこのレースに関わる以前は、ハセツネカップ(日本山岳耐久レース)や斑尾、富士登山駅伝などいくつかのトレイルランニングレースに参加していたが、レース運営の裏方を経験した事はなかった。
平尾台と同じ北九州市の福智山系でカントリーレースという小さな規模の草レースの運営に携わってはいたが、大きな規模のレースは初めてだった。
大きなレースの運営というのは、関わる人の数もまるで違うし、目指している方向に進もうとしても中々思うようにはいかない。
どう転んでいくのか分からない中で、よくここまでたどり着いたと思う。
人ひとりがどう頑張ってもできないようなものが、協働することで初めて実現していくというこれまでに経験したことのない実感があった。

image 北九州市市長への表敬訪問(2010年1月)

レース開催

参加エントリーは早々に募集定員となり、募集から開催までの2か月の間で、運営に関する詰めの作業。
第1回目の大会というのはとにかく決めないといけないことが多い。
コースに設置する案内板にしても、サイズは?色は?支柱長さは?材質は?という具合だ。
考えられるだけ考えて、後はやってみないと分からないことが多いから問題点をフィードバックして改善していけばいい。
コースの試走も繰り返し、本番ギリギリまで調整は行われた。

image レース開催2日前、案内板の設置(Brossオーナー、永松さん)

2010年4月18日、第一回目の北九州・平尾台トレイルランニングレースの開催。
春のカルスト台地に400名のランナー達と、地域の方々や当日の運営スタッフとしてボランティアで駆けつけてくれた人たちが集結し、こうして北九州の平尾台に新しいトレイルランニングレースが始まった。

テキスト/安部貴祐 写真/WIZARD井上義幸(1枚目)、重岡典彰(3、5枚目)、安部貴祐(その他)

プロフィール

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安部貴祐(あべ・たかまさ) 大学生の頃から登山を始めて二十数年。八幡山岳会に所属。
トレランレース(カントリーレース、北九州・平尾台トレイルランニングレース)の運営をライフワークにしている。
仕事は建築設計、コルチナ建築設計室の屋号で活動中。
関心事は、トレラン、登山、DIY、本、映画、音楽。

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