Hikers

山の図書館と
まだ本になっていないストーリー

重藤秀世

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宝満山は小学校の行き帰りに見えるんです

僕が福岡に越してきて間もない頃に縦走したのは、若杉山から宝満山だった。5月のよく晴れた気持ちの良い日だった。JR篠栗駅を9時ごろスタートして、若杉山の巨大な杉の木を見たり、握ってきたおにぎりを景色のいいところでのんびり食べたり、初めて見たギンリョウソウという不思議なキノコのようなものに驚いたりして、のんびりと縦走を楽しんだ。
宝満山に到着して、急な階段ばかりの道を竈門神社の方へと向かっていると、「山の図書館」という看板に目が止まった。ログハウスのような作りの建物も素敵だった。
時刻は夕方5時ちょうどくらいだった。ちょうど山の図書館の閉館時間だったが、扉をあけて中を覗くと、メガネをかけた白髪混じりの初老の男性が「どうぞ見て行ってください」と言ってくれ、僕たちは少し中を見せてもらった。
ずいぶん経ってからわかったことだけど、それが重藤秀世さんだった。

山の図書館へ行ったことのない人でも、福岡在住のハイカーであればほとんど全員が重藤さんのお世話になっていると言ってもいいだろう。なぜなら、昭文社の山と高原地図「福岡の山々」の調査執筆者が重藤さんなのだ。
そして、今、僕はその重藤さんと山の図書館の奥の座敷に向かい合わせに座って、重藤さんと山の図書館についてあれこれと話を聞かせてもらっている。

「私は福岡出身です。隣の宇美町なんです。宝満山は家からよく見えるんですよ。正確に言えば、家から見えたのは三郡山です。宝満山は小学校の行き帰りに見えるんですね。宇美町の方から見たら、太宰府側から見るのと違って壁状で連なって見えるんですよ。とても迫力があるんです。そういう風景の中で育ちました。」

柔らかい日差しが差し込む部屋で、重藤さんは、ニコニコとしながら話してくれた。
福岡の人にとって宝満山は登山の登竜門的な存在だろう。重藤さんの登山人生もこの宝満山から始まったということだった。

これはちゃんと勉強しなくてはダメだ

「山に入るようになった理由は、やっぱり安保ですね。私は安保に直接関わったわけではないですが、雰囲気というか、背景としてはあったと思うんです。それに、あの頃はいわゆる60年代の登山ブームの頃で、山に行く若者が多かったんですね。キャラバンシューズとか出回って、そういう時期だったんです。その頃、私は、まだ高校だったんですが、どういうわけか試験が終わった後にちょっと山に行ってみたことがあるんです。それが初めといえば初めてでしたね。安保とは直接は関係ないかもしれませんけど、何をしていいかわからんという、そういう時代だったんだと思います。」

1956年に槇有恒が率いる日本隊が8000m峰であるマナスルの初登頂に成功し、日本では空前の登山ブームが起こったという。そして、1959年に安保闘争が始まり、60年代を通して学生運動が活発となった。
僕は1971年生まれなので、そのどちらも生まれる前の出来事だったが、おそらくそれは良くも悪くも、現代日本の青春のような時代だったのではなかったかと想像する。
希望と不安や憤りがないまぜになって手探りで歩いていたような、時代は違っても誰しもそれぞれにそんな時期を過ごした記憶があるだろう。

「宇美町の方から宝満山に来たら河原谷ごうらだにを登るんですけど、たまたま羅漢道を通ったことがあったんです。そしたら、そこでクライミングをしてる人達がいたんです。あそこは練習場のようになっていたんですね。それからそこを通るたびに、練習している人たちを興味津々、見ていました。そうするうちに、霧の濃いある日、その岩場に誰もいないことがあったんです。そして、試しに登り始めたんです。なんか、登れるような気がしたんですよ。でもやっぱり登れないんですね。ちょっと登っただけなんですが、もう、降りるに降りれなくて立ち往生してしまったんです。道具も何も無い、全くのフリーでした。そんな時に落石を起こしたんです。割と大きいやつを。それがね、バウンドしていくわけですよ。谷の下まで響いて、霧の中でいつまでも響くわけです。その時に、もし下に人がいたらと思ったらゾッとしましてね、えらく怖くなって。その時はなんとか降りはしたんだけど、これはちゃんと勉強しなくてはダメだと思って。それで山岳会に入ろうということで門を叩いたというわけです。」

先輩たちの記録を塗り替えていこう

その後、重藤さんは「しんつくし山岳会」に入会した。そして、本格的に登山に情熱を傾けるようになっていった。当時の山の会では、あらゆる年代の人が集まって、同じように楽しそうに山の話をしていたという。重藤さんはそういう雰囲気を魅力的に感じ、惹きつけられていったという。実際には、最初は、なかなか中には入って行けなかったが、側で話を聞いているだけでも楽しかったと言って、重藤さんは笑った。

「泊まり込みでの合宿では、焚き火を囲んで先輩の話に耳を傾けました。たくさん刺激を受けました。しかし、会もがんばってはいたんですが、雑誌などで発表されているものと比べると遅れを取っていました。世の中は、もう、次の段階に入ってるんですね。じゃあ、まずは先輩たちの記録を塗り替えていこうと話したりしました。そういう雰囲気がいい刺激になって、私は山岳会の活動に没頭していきました。
でも、私がその会にいることができたのは3年間だけだったんです。就職が決まって、勤務地が東京になったんです。それで、その会のことを含めてまだ離れたくないから東京勤務を断ったんですけど、東京に行かないなら取り消しになると言われ、泣く泣く行ったんです。

今では、本で読むしかないような時代の山の世界を重藤さんは生きていた。当時のことを振り返りながら楽しそうに重藤さんは話してくれた。それは、単なる登山記録や山岳会の思い出ということではなかった。重藤さんの一生懸命取り組んできた、人生そのもののような、ほんのり甘酸っぱい話として僕は聞いていた。

第1回終わり〜第2回へつづく

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取材/2017年9月15日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/松岡朱香 写真/石川博己

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