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あるがままに、流れるままに

津崎信乃 1

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大失恋したんですよ!!

津崎信乃さんは、ショートカットとメガネが印象的な、頭に「超」をつけても差し支えないだろうと勝手に思えるほど、行動的な印象を与える女性だ。 自身のFacebookの投稿には、パタゴニアのフィッツ・ロイやらボリビアのウユニ塩湖、マチュピチュなど南米からの投稿が続く。少し前まで、アウトドアウェアのメーカーに勤めていたのはなんとなく知っていたが、屋久島にも長くいたらしいし、行動範囲も広ければ、どうやら人生の振れ幅も大きいらしい。
そんな、「シノさん」こと、津崎信乃さんのライフストーリーを聞いてみたいと思うのは僕だけではないはずだ。
そういうわけで、シノさんに連絡を取ると、この春から鹿児島県阿久根市にいるという。早速、博多から九州新幹線と肥薩おれんじ鉄道を乗り継いで阿久根へと向かった。素敵な感じにリノベーションされた駅舎を出ると、満面の笑みをたたえたシノさんが僕たちを迎えに来てくれていた。

「小学校の4年生からずっとバスケットボールだけ、他のことに興味がなくて、もうひたすらバスケをやってた。」

少年のような、というと失礼だと取られるかもしれないが、本当に少年のように輝いた眼差しでシノさんは話す。

「でも、高校3年生になる直前に練習試合で靭帯をバッサリ切る大きなケガをしちゃって。まさにお先真っ暗という感じ。これを機に、バスケ一筋だった人生や進路についていろいろと考えたんです。そして、出した結論は、『福岡に帰ろう!』だったんです。怪我をしたことが次へ動くきっかけになりました。」

福岡生まれのシノさんは、青春時代のほとんどを親の仕事の都合で引っ越すことになった山口県宇部市で過ごした。
福岡に帰ると言っても、その前にまず怪我を乗り越えなければならない。

「手術して、リハビリに1年くらいはかかったんですけど、その間に色んな事を考えましたね。バスケひと筋でやってきた人生に、怪我したことで強制的にストップがかかった。すると、これが自分の人生だと信じていたレールをはずれて他のこともやってみたいと思うようになったんです。」

シノさんには、小さい頃から学校の先生になりたいという夢があった。福岡に戻ると教員免許を取れる短大へ進学し、教師としての未来へ向かうことを決意した。怪我を克服し、新しい人生の方向を見出したかのように思えたのだが、どうもそれはうまくいかなかったようだ。

「教育実習に行ってわかったんですが、どういうわけか、職員室という空間にどうしても馴染めなかったんです。そのせいで、もしかしたら自分には教師は無理かもしれないと思い始めると、だんだん気持ちが離れていって、そして、ふたたび目的を見失ったんです。」

そう言って、シノさんは顔を曇らせた。
短大の卒業も迫っていた。

「でも、せっかくだったら、この際自分の見たことない世界をいろいろ見てみよう!って、突然思ったんです。というのも、実は、ちょうどそのころ、私、大失恋したんですよ!!」

シノさんは、そう言って大笑いした。

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酸いも甘いも北の大地で

「その失恋に振り回されるのが嫌だったから、なるべく九州から離れたところに行きたいと思い、北海道に行くことにしたんです。友達から紹介してもらったある牧場に電話して、『すいません!今から行かせてください!』って。」

かなり突拍子もない決断だと思ったが、恋に破れた若い乙女の行動力は僕たちには計り知れないものがあるのかもしれない。いや、そんなことはない、誰もが失恋でそんなことをしていたら九州から乙女がいなくなってしまう。これはあくまでもシノさんゆえの思い切りの良さだろうと思い直した。

「電話したら、『来てもいいぞ、そのかわりお前、絶対3日で泣いて帰るから』
って言われたんですよ。それで、『ありがとうございます、では、行かせてもらいます!』って言って、ホントにポンって行っちゃいました。」

そう言ってシノさんが向かったのは、北海道別海町のある大きな牧場だった。
別海町は、それより遠くへ行こうと思えば北方領土へと渡ることになる、九州から見れば地の果てのような道東の町だ。

「体育会系でずっと来たから、体力だけはめっちゃある。それで認めてもらえて、『じゃあ、お前、競馬場に入れてやる』って言ってくれたんです。」

「競馬場にいれてやる」というのは、北海道で開催される馬がソリを引いて競争する『ばんえい競馬』の馬を世話する厩務員として働くということを意味していた。『ばんえい競馬』は、現在は帯広市でのみ行われているが、当時は帯広のほか、北見、岩見沢、旭川を巡回して開催されていた。

「300人以上いるスタッフ全員が男性なんですよ。その中にハタチの女子がひとり。朝3時から毎日、休みなしで働くっていう生活で今までの人生とは正反対のような世界を見れた。酸いも甘いもそこでいろいろ教えてもらいました。『ばんえい競馬』って、サーカスみたいに競馬場が移動して北海道を1周するんですよ。1年半くらい馬と一緒に移動する生活をして、マイナス27度にもなる環境で精神的にも肉体的にも鍛えられました。もう福岡に帰っても大丈夫だと思った。」

シノさんは北の大地で、失恋を乗り越えるだけでなく、人生の手綱をふたたび自らの手にするができたようだ。

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歩けるようになる確率は1/3

「福岡に帰ると、やっぱり自分はアウトドア・アクティビティが好きだと思っていたところ、縁あって福岡では最初だったモンベルのオープニングスタッフとして働くことになったんです。モンベルのことをみんな『モントベル?』っていうぐらいの20年以上も前の話です。」

シノさんはそう言って楽しそうに笑った。

「モンベルで仕事をしはじめると、山登りやカヤックなど、フィールドにどんどん出ていないとお店での接客もちゃんとできないと思い、当時の店の仲間とあちこち行ってました。アウトドアで体を動かす毎日が、すごく楽しくて、もうなんでもできちゃう!みたいな感覚で、調子にのっていたんでしょうね。レールをはずれて自由になってハジけた感じがすごかったと思うんです。それでたぶん、お灸を据えられたのか、25歳になる直前に交通事故にあったんですよ。」

順風満帆の新生活かと思って話を聞いていると、突然、暗雲が立ち込めた。

「仕事からの帰りに、原付きバイクで車と衝突したんです。私は、意識不明の重体で病院へ運ばれて、3日くらい意識が戻らなかったんです。」

暗雲どころではない話の成り行きに、鼓動が早まるのを感じた。

「あきらめてください、という話しも出たようなんですけどなんとか生還しました。でも、足がホントにぐちゃぐちゃになってて。『元のように歩けるようになる確率は1/3しかありません、車椅子生活を覚悟してください』って言われました。」

ノリノリの毎日が音を立てて崩れていく様子を想像してみたが、状況は僕の経験をはるかにしのいでいて、うまくいかなかった。これでは、またしても「お先真っ暗」ではないか。

「退院まで半年以上はかかるだろうってことだったんですが、病院にいることの方がストレスだったから、松葉杖つきながら2ヶ月半で退院したんですよ。頬骨の骨折もあって顔もぐちゃぐちゃだったし、先生からは足のボルトが抜けるまで歩けるかどうか分からないって言われたまま。」

そう話す目の前のシノさんは、歩くどころか完璧にピンピンしているので、この話の結末はまったく問題ないところに行くのだとわかってはいたが、それでも穏やかに聞いていられるものではなかった。

「だけど、全部戻ったんですよ!」

シノさんは「すごいでしょ!」という感じで少し身を乗り出して言った。 まあ、そうなんだろうけど、それを聞いて肩の力がふっと抜けた。 色々とありそうだとは思っていた、いや、むしろ色々を期待していたシノさんの話はのっけから命からがらというところまできてしまい、この後、どうなっていくのか少々心配になってきた。

最後に、「全部戻った」後の話を少し付け加えておくと、もし歩けなくなったら車椅子でのバスケというのもいいかなと、ポジティブな気持ちを持って取り組んだ1年ほどの必死のリハビリのおかげで、懸念された足の長さの違いもなく奇跡的な回復をした。「歩けるようになって第二の人生が始まった!」と、当時を振り返るシノさんは、それまでと同じように、思いつきでスカンジナビア半島を自転車で1周するという旅を敢行。途中で、自転車が盗難にあったり、言葉もままならない外国で苦労もしつつ、後遺症障害認定を受けた自身のこれからの人生に制限がないことを確かめることができたという。特に、ノルウェーのフィヨルドで山をひとつ上りきった後、一気に下り始めると涙が止まらなくなった。それが、事故を克服できたと感じた瞬間だった、とシノさんは聞かせてくれた。

さあ、そろそろ十分だろうと思うので、いささか突然ではあるが第1回はこれくらいにさせてもらおうと思う。
次回からのもう少しだけ平穏な展開を祈りはすれど、あるがままに、流れるままのシノさんそのものの生き方は、もちろん僕のリクエストとは無関係に大海原を自由にスイスイと行くのでしょう。
そうそう、次はどうして阿久根にいるのかという話も忘れずに聞かないといけません。

第1回終わり〜第2回へつづく

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取材/2020年9月19日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/ヒラナミ 写真/石川博己

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