Hikers

25歳までにやっていたことの延長でしかない。

福原正夫

image
image
image

TJAR(トランス・ジャパン・アルプス・レース)が大きな目標と言っていますが、実は、私は運動オンチなんです。

よく晴れた日の正午になる少し前。福原さんの自宅のバルコニーで福原さんの山での活動についていろいろと話を聞かせもらっていた。奥さんの世話する綺麗な鉢植えがバルコニーの壁の上を飾っていた。
TJARという山岳レースについての話が中心だったが、次第に福原さん本人について興味が湧いてきた。福原さんの穏やかな雰囲気と話の内容とのギャップのようなものに惹きつけられた。

「小、中学生の頃の体育の成績は3くらいだったですかね。球技系は特にダメでしたね。サッカーとか、野球とか。そう言いながらも軟式テニス部に入っていたんですが、ずっと補欠でした。相手と面と向かって対決するような競技が苦手でしたね。まだ並んで競う方がいいのかな。社会人になってからですが、テニスをやめて山に行くようになったのには、そんな背景があったかもしれません。山にいると、自分の体を動かすフィールドはここかなっていう感じがありました。」

福原さんが仲間と一緒に冬の剣岳の早月尾根を上がっている写真を見たことがあった。50代や60代の方々が中心なのだろうか、10名ほどの仲間が、よく晴れ渡った日に、たっぷりと雪の積もった尾根をロープをつないで歩いていた。写真の中で、みんな楽しそうだった。きれいなオレンジ色の朝焼けは、雪稜を歩いていくパーティーを神々しく照らしていた。

「あれは、メンバーとしては福大山岳部のOBのメンバーですね。私は福大山岳部の出身ではないんですけど、当時、福大山岳部のOBが中心になったベルグ・スピンネという山岳会があったんです。そこに入れてもらって2、3年一緒に動いて時期がありました。そのメンバーが数十年ぶりに剣岳に行くぞということで集まったんです。25歳の時にもほぼ同じメンバーで厳冬期の剣岳へ行ったことがあったんです。もう33年も前かな。その時は、小窓尾根から登って、1日でチンネの正面壁をやって、剣本峰を踏んで早月小屋までを降りたんです。めっちゃ強かった時代です(笑)。
でも、北アルプスの夏山や冬山でも山に入ったら先頭に立って行動していましたが、山行の計画をゼロから作ることはしていなかったんです。他の人の計画にコメントするくらいで。全てを自分で計画して、実行するということをやるようになったのは、一人で夏山をウルトラライト系の装備で歩きだすようになってからです。この6、7年のことで、50歳を超えてからですね。一人で全てのリスクを背負っていくのは、なぜか今頃になってからなんです。」

山が青春だった時代の思い出を振り返るように話す福原さんは楽しそうだった。やはり元来はがっつり登る山ヤさんだったわけである。それなのに、山行計画を自分自身でするようになったのは最近になってからだという話は意外に思えた。きっと控えめな福原さんの人柄が影響していたのでは、と想像しながら聞いた。

あの山まで行って帰ってくるという感じ

ここまで山に入れ込んでいる福原さんの普段の生活のことを聞いてみたくなった。家族や職場では理解されているのだろうか?「まあ、今のところ、おかげさまで、なんとか理解してもらっていますね。」福原さんは笑って答えた。大きなお世話だった。

「福岡の市役所に勤めています。基本、通勤は自転車かランニングですね。自宅から大濠公園と舞鶴公園経由で6kmくらいです。時間があれば舞鶴公園の中をちょっと回ってね。公園の中は少しアップダウンがあって、高低差が10mもないような登りでも全くフラットなところをダラダラと走るよりは刺激になるんです。
だいたい月曜日と火曜日は日曜日の疲れで走れないんです。そういう時は自転車です。調子良ければ水曜日から職場に走って行って、木曜日、金曜日はなるべく走っていきます。最近は行けていませんが、ジムトレーニングもします。そして、土曜日か日曜日のどっちかでは山に入っています。近場の脊振山系へ行くか、宝満山系かどっちかですけどね。」

限られた時間の中での効果的なトレーニングを組み立てることは、すでにその山行やレースの一部なのだろう。
福原さんは、先日も自宅から脊振山の往復60kmを走っていた。「ここから見えているあの山まで行って帰ってくるという感じです。」さらっと、なんでもないよ、という風に話すが、フルマラソン1.5回分の距離だ。なんでもなくはない。
「何が日常かというのが難しいですね。」山と日常のバランスについて僕がたずねると、福原さんはそう言った。ふと、福原さんのような人がいるということだけで、励みになったり、勇気をもらっている人はたくさんいるのだろうなと、僕は思った。

やってることは変わらないんですよ。

「やっていること自体は25歳までにやっていたことの延長でしかないような感じもあるんですよね。高専を20歳で卒業して、すぐに市役所入って職場の山岳部にも入部し、その後ベルグ・スピンネという社会人山岳会に入って、その5年間でやってきたこと。その頃は、ほとんどのお金と時間を山に使ってました。23歳の時にはマッキンレーに登りました。35kgの荷物を背負って竈門神社から宝満山を40分で登れていた頃です。そして、25歳の時にヒマラヤのチョー・オユー遠征に参加したんですが、ここでは全く高所順応がうまくできずに高山病になって、打ちのめされて帰ってきました。高所登山には体が向いてのないのかもしれないです。」

福原さんは、その頃に記録をつけていた鹿の絵が表紙にある登山手帳を見せてくれた。茶色く変色したノートには、細かい文字がびっしりと書き込まれていた。そして、当時履いていた重登山靴もどこかから出して見せてくれた。もう何十年も履かれていないその重厚な革靴は、ワックスの匂いと共にその時代の空気で僕たちのいる空間を満たした。

「こうして手帳を出してみると、昔やってたことを思い出しました。阿蘇の外輪山を一周したなとか。110kmか120kmくらいはあったんでしょうかね、仲間と5人で二晩ぐらいかかってますね。脊振山から十坊山までというのは、そのまた何週間後かですね。楽しいハイキング計画って書いてますね(笑)。あとは宮崎県の比叡山や行縢山の岩場とかですね。これは当時の人工ルートでは一番グレードが高かったですね。みんなでワイワイ行ってました。山を走ったりもしてますね。宝満山の『竈門神社から若杉山頂まで2時間6分、2時間は切れる』と書いてますね(笑)。ポカリスエット1本だけ、Tシャツに短パンで。今やっていることと大して変わってないですね。」

福原さんは、そこまで笑いながら話すと手帳を閉じた。
「もうすぐ60歳になるのにすごいですね」と、世間の誰もが思うだろう。でも、福原さんの話を聞いていると、福原さんの山の時間は20代頃から今まで、途切れることなくずっと40年間近く繋がっていているだけのことのような気がしてきた。それはきっと、一般的にいう「年をとること」とは別の次元やベクトルで継続されるエネルギーの活動のようなものなのだと思う。
当時の福原さんは、旧福岡県庁舎の保存運動の市民活動にも参加していたのだそうだ。仕事が終わった後に保存会の事務所で打ち合わせをしたり、山に行かない週末は天神で署名活動をやって、そして、またそこからアパートまで走って帰っていたという。「やってることは変わらないんですよ。」福原さんは、にっこりと笑ってそう繰り返した。

第2回終わり〜第3回へつづく

123

取材/2016年7月3日 テキスト/豊嶋秀樹 写真/石川博己

facebookページ 公式インスタグラム