Hikers

歩くことが日常になるとき

丹生茂義

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今、PCTからの帰りなんです

丹生茂義さんとは、僕がオーガナイズしていた別のイベント会場で出会った。それは、僕が「山と道」の夏目さんと一緒に日本全国を旅するようなイベントで、その日は僕の住む福岡での開催だった。
 ひととおりイベントが終わり懇親会となって、僕は参加者の方々との話に盛り上がっていた。そんな混み合った会場に、髪の毛と髭を長く伸ばしたままにした、明らかに「どっか外国に行ってたな」という雰囲気を漂わせている男性がいた。それが丹生さんだった。
 丹生さんは僕に、「今、PCTからの帰りなんです。」とサラリと言った。まるで、「今、天神で買い物した帰りなんです。」とでも言うように。
 PCTというのは、ロングトレイルに興味のある人は知っているだろうが、アメリカにある4000キロ以上にもなるトレイルのことだ。メキシコとの国境からカナダとの国境まで続く、アメリカの三大トレイルのうちの一つである。正式には、パシフィック・クレスト・トレイル(Pacific Crest Trail)といい、PCTは、その頭文字だ。  びっくりした僕は、「え、あのPCTですか?」と興奮気味に聞き返した。丹生さんは、まさに、あのPCTを5ヶ月かけて歩いた後、日本へ帰国し、大分の家に帰る途中でたまたまこのイベントのことを知って立ち寄ってくれたのだという。
 もっとちゃんと話を聞きたいという衝動に駆られた僕は、その場で次のハッピーハイカーズバーでトークをして欲しいとお願いした。僕のあまりに唐突な依頼に少し戸惑いながらも丹生さんは引き受けてくれた。
そして、約束どおりハッピーハイカーズバーでトークをしてくれた丹生さんに、今度はこのウェブマガジンで取材させて欲しいと僕はさらなるお願いしたという流れだった。

山を越えて学校へ行ってたんです

福岡から高速を使っても3時間ほどかかる大分県臼杵市に丹生さんは住んでいる。今は、生まれ育った実家に戻っているということだった。臼杵は国宝の石仏があることで僕も聞いたことはあったが、来るのは初めてだった。高速道路を降りて、両側に山と田んぼが続く道をしばらく行って、トンネルをいくつか抜けたところにあった大きな日本家屋の前で、この辺だろうかと、僕は丹生さんへ電話をかけた。しばらくすると、丹生さんが、その立派な家の坂道を、手を振りながら降りてくるのが見えた。

「小学生の頃、山を超えて学校へ行ってたんです。すごく距離もあって遠いんですけど、子供だったから楽しくて、登下校時にはいつも山の中や、すぐ前に流れている川で遊んだり。大人になって、自然からは遠のくような生活の中で、子供の頃の楽しかった感じを求めたんですかね。今、すごくハマってる感じですよね。」
僕たちは、縁側からの光が明るく差し込む広々とした座敷で話を聞いていた。出してもらったお茶の湯気が反射してキラキラと揺れていた。

丹生さんの通った小学校は、1学年16、17人ほどだった。もちろん1学年には1クラスしかなく、6年間同じクラスのままだった。中学生になると、2つの小学校の生徒が1つの中学校に集められたので1クラス35人ほどにはなったらしいが、それでも1学年には1クラスのままだった。
「クラス替えとか、すごく憧れましたね。」
丹生さんは、照れるように少し笑って子供の頃のことを話してくれた。
大阪の街中で育った団塊ジュニア世代の僕とは随分違っていた。無い物ねだりだろうが、僕は山裾にポツンとあるような木造校舎の小学校に憧れる。
そんな丹生さんは、大分市の高校へ行くようになり、クラスが8組まであって軽いカルチャーショックを受けたと言った。僕の行った高校は、12組まであったので、丹生さんがそんなところに行ったらグレちゃってたかもしれない。
「そのあと、大分市にある半導体チップの製造工場に就職して。最終的にその会社に18年いたんです。」

今回、僕はPCTを歩いた人の話を聞きに来たのだが、PCTでの細かいことよりもむしろ、どんな人が外国まで行って、4000キロもあるトレイルを何ヶ月もかけて歩くんだろうという方に興味が引っ張られていた。ある意味では誰にでもできることかもしれないが、そんなに多くの人がやることでもない。ロングトレイルを歩くことに興味はあるかと聞かれれば、あると答えると思うけど、僕はまだ行動には移せていない。もちろん、歩き始めるにはそれぞれの動機や理由があって、それはあくまでも個人的なものだろう。それでも、そこには何か歩き出していない僕とは違うものがあるような気がしていた。

30歳を過ぎたら身体を動かしたい

「僕、今もDJしてるんですけど、二十歳くらいからですかね、クラブミュージックっていうのに出会って。きっかけはフジロックとかだったかもしれないですね。フジロックで、夜はクラブ系の音楽とかもやってて、そこで格好いいなって思って。大分市にもクラブあるんで行ってみたら、たまたま僕の高校時代のバドミントン部の先輩がそこでDJしてて、それが繋がりでやるようになったというか。それから、20代はほとんどDJやることだけに夢中だった感じです。」

そういえば、僕の周りにも山に行ってる人でDJもやる人が何人かいたので、何か共通するようなところでもあるんだろうか。というよりも、DJが先で、何かきっかけがあって山に入るようになるという方が多いかもしれないなと、話を聞きながら推測した。じゃあ、そのきっかけは何なんだろう。

「うーん、なんか無性に外出たい、みたいな感じだったと思います。30歳を過ぎたら身体を動かしたくなるとか言うじゃないですか。それなのかはちょっとよくわかんないんですけど、なんか仕事もほんと建物の中だし、まぁ、クラブで遊ぶのも建物の中だし。一番最初にしたのはキャンプだと思うんですけど、それが多分楽しかったんですよね。こういうのをしたいみたいなので始まった感じですかね。」

もっと大きなきっかけのストーリーを期待していた僕は肩透かしを食らった。そして、そこから2年後にはPCTを歩いているというのは、とても急な話に聞こえた。丹生さんの掴みどころのないような雰囲気に僕は少しばかり翻弄されていた。でも、こうしてしばらく丹生さんと話していると、周りからするとびっくりされるようなことを、何も構えるでもなく始めちゃう人なのかもしれないと思うようになってきた。

「最初は大分県内の山とか、くじゅうとか由布岳とかそういうとこですね。本当もう週末登山って感じで。日帰りから始まって一泊とか、それが二泊になってとか。仕事しながら、そんな感じの週末登山を1年間くらいやっていました。」

その後、丹生さんは、会社を辞めた。そして、「山と道」の夏目さんが思いついてブログに投稿した「The Great Japan Loop」と名付けた、日本海から太平洋を繋ぎ、それをまた行きとは違うルートで日本海まで戻るというループ状のトレイルを2ヶ月半かけて歩いた。そのルートを実際に歩いたのは恐らく丹生さんが最初だろう。

話は大きな転換期を迎えたようで、僕は丹生さんを質問攻めにしないわけにはいかなくなっていた。

第1回終わり〜第2回へつづく

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取材/2018年1月6日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/松岡朱香 写真/石川博己

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