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直立真顔と書いて「ピュア」と読む

坂本英人 1

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炭坑節のまち

「坂本英人です、48歳。田川市出身で、今も田川です。」

はい、そうです。アノ、『チョクマガ』の坂本英人さんです。インスタグラムのユーザーネームである、「@hidetowood」さんという方が親しみを感じる人が多いかもしれない。(インスタの方は最近あまり投稿されていないようですが)
満を持してのインタビューはこれから全3回の連載となる。
直立で真顔の英人さんしか知らない人にとっても、そのほかの顔を少しは知っているという人にとっても、これまで聞くことのなかった英人さんのピュアな素顔に直立真顔でせまってみたい。

「高校卒業して福岡に出てきました。福岡の専門学校へ行ったんです。10年くらい前までは福岡にいたんですよ。結局20年くらいいて、両親が歳取ってきたのとかもあったし、田川に帰ろうかなって。田川のバイパスが無料になったし。」

英人さんが、「バイパスが無料になったし」というところを強調するように言ったのは、両親思いへの照れ隠しだろうと受け止めた。

田川といえば何よりもまず、日本を代表する民謡「炭坑節」のふるさとである。

「親父の時代には人口が多かったらしいです。小学校は1学年に10クラス以上あったって言ってましたもんね。自分たちのときは3クラスだったんです。炭坑が閉まって、親の仕事がなくなって出て行くじゃないですか。だから転校していく子供がめちゃくちゃ多かったんですよ。」

田川市のホームページに「炭都田川の隆盛」というページを見つけたので興味がある人は読んでみて欲しい。その時代には炭鉱のことを「ヤマ」と呼んだらしい。50年前に炭鉱が閉山し人口は半分以下になったという。

「じわじわでしょうけどね。自分が小学生だった頃の過疎化のスピードはすごかったですよ。1学期の間に何人かは転校していく。徐々に子供が減っていって、6年になる頃には1クラス分減って、1学年に4クラスあったのが3クラスになりましたね。」

それはちょうど、「団塊ジュニア」と呼ばれた第2次ベビーブーム世代の時期にあたるので、世間の流れとは反比例していたということになる。

「人数が少ないんで、学年が上がっても幼なじみがそのまま一緒に進級いくんです。高校くらいで、今も一緒に山に行ってる仲間と出会ったんですよ。ユウスケとかテルとかは高校の友達です。」

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ラフィンノーズ

ユウスケさん(@yuuusuuukey)やテルさん(@teru_cmchq)といえば、ハッピーハイカーズでもおなじみのお二人だ。
みなさん、どんな高校生だったのか。

「ヤンチャ系ってわけではなくて、お調子者?悪いっちゃ悪かったかもしれないけど、いわゆるヤンキーではなくて、バンド系ですねどっちかと言うと。パンク全盛期にかぶってるんですよ。中学校のときに音楽をはじめて、パンクにあこがれて高校のときにユウスケとバンド組んだんです。『ラフィンノーズ』の“GET THE GLORY”を聴いてガツンときてはじめた感じですよ。僕はギターでした。今はまったく弾けないです。」

英人さんは、そう言ってゲラゲラと笑った。
世代感丸出しな感じで、ひとしきりバンドの話で盛り上がった。
『ラフィンノーズ』を知らない若い読者のために、当時からフォーマットが変わっていないのではと思わせるバンドのホームページと、代表曲のYouTubeのリンクをはっておいたので、ぜひお楽しみいただきたい。

そして、楽しい高校生活を送った英人さんは、田川をあとに福岡の専門学校へと進学した。

「情報処理系の専門学校です。もうただ単に働きたくなかっただけなんですよ。大学に行く頭もなかったんで、じゃあ専門学校生になろうと思って。情報処理ってことでパソコン使うんですけど、今みたいなパソコンではなくて、アルファベットと記号を打ってプログラムするようなやつです。」

まだwindows95が発売される前の、MS-DOSというOSを搭載したIBMのパソコンが全盛期の時代だ。画面にアイコンはなく、パソコンをやるということがプログラミングをすることと同義だった。

「頭のいい人はゲームのプログラミングとかしてたんですけどね、自分はぜんぜんでしたね。遊んでばっかりでしたからね。」

「しゃーないですよね」と呟きながら英人さんは苦笑いした。
さて、田川から遊びたい盛りの英人さんに福岡の街はどう映ったのだろうか。

「もう大都会でした。最初に住んだのが薬院だから、天神はすぐそこだし、もうめちゃくちゃ都会。西鉄の薬院駅はまだ高架になっていなくて、踏切があったんですよ。学校は博多にあったので毎朝バスで行ってたんですけど、バスが10台くらいずらっと並ぶじゃないですか、どれ乗っても博多駅に行くんだ!みたいな。こんなにバスが走ってるんだって驚きましたね。」

当時は、田川から東京に上京する人はまだほとんどおらず、田川から出る人たちの主なチョイスとしては福岡に行くか小倉に行くかだったらしい。

「福岡に行くって友達に言ったら『おーすげー!』みたいな、時代ですよね。」

そして、英人さんは、しっかり専門学校生として遊んだのちに、どういうわけかスーパーに就職することになる。

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パチンコと夜遊び

「いとこの兄ちゃんが薬院のスーパーの中で八百屋をやっていたんです。専門学校のときからそこでバイトさせてもらってたんですよ。卒業するときに、このままだと単位が足りてなくて卒業できない、でも、就職が内定すれば卒業させてやるって学校から言われて。それで、いとこの兄ちゃんに社員にしてくださいって頼んだんです。親に授業料払ってもらってたんで卒業できないじゃさすがに申し訳ないので、『八百屋になります』って親に言って。どうしようもなかったんで、半分苦しまぎれの言い訳みたいなもんでしたけどね。」

20歳の英人さんは、そういうわけでスーパーマーケットの青果コーナーで働くようになった。

「でも、実は野菜嫌いだったんですよ。ぜんぜん食べれなかった。まぁ、やりだしたら八百屋だし、食べたことない野菜とかも食べないけんと思って少しずつ食べるようになって。おかげで今はもう野菜好きになりましたけどね。」

英人さんからのちに聞いた話だが、スーパーの青果コーナーには専門の会社がテナントとして入っているというケースが割とあるらしい。品揃えが良かったり、陳列に工夫がみられるようなところはたいていがそうらしい。魚屋、肉屋も同様にテナントが入っている場合が多く、全体でひとつのスーパーに見えているが実はそうではないという豆知識を授かった。

「自分は仕入れの担当でしたね。仕入れた商品は、パートさんに袋詰めやパックしてもらうので、自分は店頭に立ってお客さんと会話したりするようなことが多かったですね。」

働き始めて5年がたつころ、いとこの経営する八百屋の入居していた建物と周辺が再開発の対象となった。

「再開発を機にいとこの兄ちゃんが八百屋を辞めるって言うんで、自分が独立してそのまま引き継ごうかと思ったんですよ。でも初期投資がすごくて、これは無理だとあきらめて、結局何もせずそれから2年くらいプー太郎してました。八百屋をやめるときに退職金や事業を始めるための開店資金をもらったんで、それで2年間しっかり楽しみました。」

英人さんは「いっさい働かなかった、まったく働かなかった」と繰り返し言って楽しそうに笑った。

「パチンコで稼いだお金で夜遊びですね。パチンコでは生活できるほどには儲からなかったですね。最初はそれでいけるんじゃないかとかなり本気で考えたりしましたけど。」

そう言って、英人さんはまたゲラゲラと笑った。
こっちもつられて大笑いしてしまう。

「そのうちに、もらった退職金と開店資金が底をついてきたんで、そろそろ仕事しなくちゃと思うようになった、という話です。」

ここで第1回の連載を区切ると、英人さんが少々ダメな人のような印象を与えるのではないかという後ろめたい感じがあるが、もちろん、その後、英人さんは立派に独立していまにいたる八百屋ビジネスを軌道に乗せることになるので、その話は今後するのでしばらくお待ちいただきたい。
次回は、英人さんが打ち込んでいるテンカラについての話を聞こうと思う。

第1回終わり〜第2回へつづく

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取材/2021年11月5日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/北川朱香  写真/石川博己

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