Hikers

あるがままに、流れるままに

津崎信乃 2

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コロンビアから屋久島へ

津崎信乃さんの半生は、怪我とリハビリ、失恋と北の大地など、ごく一般的とたいていの人が想像する人生と比較すると、波乱万丈のドラマに満ちていると呼んでも差し支えないだろう。
生死をさまよった事故からの復活をとげた自分自身を確かめるために向かった北欧での旅を終え、日本へ戻ったシノさんのその後の人生についての話は続く。

「日本に帰って来て、アウトドアブランドのコロンビア・スポーツウェアに就職しました。自分としては、アルバイトとしていさせてもらって、休みが取れるたびに海外旅行に行ったりと、フラフラしているのがちょうど良かったんですが、辞令が出て急に店長になったんですよ。仕方ないのでとりあえず1年半くらいはがんばってやってみたんですけど、責任のあるポジションでの、自由を拘束されるような生活に抵抗を感じて、屋久島へ逃亡しました。」

「え、屋久島へ逃亡?」思わず聞き返してしまった。
シノさんは、「そうそう」と笑って話を続ける。

「たまたま、お店に屋久島のガイドさんが来られて『うちに来なよ!全然いいよ!』って言ってくれたんです。その言葉に甘えて、コロンビアを辞めて屋久島へ移ったんです。33、34歳くらいですかね。それからは、もう屋久島にどっぷり。屋久島にはそれまでも毎年のように行っていたんですけど、最初に屋久島に行った時点で『私、いつかここ住むかもしれない!』って直感的に思ったんですよ。」

またしても、シノさんお得意の切れ味抜群の思い切りの良さだ。
その直感に従うように今度は屋久島にガッツリ住んでみようと思った、とシノさんは続けた。

「ガイドさんのお家に居候して、いろんな人を紹介してもらったんです。カヤックのスキルをちゃんと身に付けたいと言うと、屋久島セーフティーシーカヤック協会の会長ところに連れて行ってくれて、そのままその方に弟子入りさせていただくことになりました。」

シノさんは、プロカヤックガイド組織であるJSCA(日本セーフティーカヌーイング協会)の公認校長・公認インストラクターである師匠のもとで、シーカヤックの技術の習得とともに、お客さんを連れてのツアーのサポートなど、その後の自分の人生に大きく影響与えることになる経験を積んだ。
そしてもうひとつ、シノさんの原点ともいうべきことにもここで再び火がついた。

「屋久島滞在中にまたバスケを始めたんですよ。屋久島のチームってまだ県大会に出たことがなかったんです。たまたま私がいたときのメンバーが結構いい感じだったんで、『これ行けるんじゃない?ちゃんと練習しようよ!』ってことになって。真面目に練習して、ちゃんと県大会に出場したんですよ!みんな、もう出られただけで大満足でした。そうゆうこともあって、屋久島では忘れられない楽しい時間を過ごしました。」

こうして、充実した屋久島での生活は2年になろうとしていた。

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社会人復帰

「このままずっと屋久島にいることもできたけど、逆に心地良すぎて、自分の成長がストップしてしまうかもしれないと思い始めたんです。会社勤めを投げ出してここに来ちゃったし、そのままだと将来的にそこがネックになって行き詰まるじゃないかって。どうせまた屋久島に戻ってくると思っていたので、島を離れてもう一度ちゃんと社会人をやってみようって思ったんです。」

そして、5年だけと決めて福岡へ戻り、いくつかの出来事を挟んで再び(やや不本意ながらも)古巣のコロンビアへと戻ることになった。店長という役職が嫌で一度は去った会社だったかが、戻った先に待っていたのは、店長が不在の店舗だった。

「店長じゃないけど、店長がいない店舗で社員でいるって、結局、店長みたいなもんで。ハメられました。」
そう言って、シノさんは笑った。

「だけど、その期間は自分の気持ちはさておき、割り切ってとにかくガムシャラに働いたんですよ。色々とあって、結局コロンビアには6年半いたんですけど、これで決めていた自分の社会人としての時間は終了ってことになりました。」

社会人として仕事に向き合う中で、最も意義深く、後のシノさんにとっての新たな鉱脈となったのが、人材教育だったという。若いスタッフがどんどん入ってくる中、自分にはない発想や、違う世代の考え方や感じ方に触れることも新鮮だった。

「こうやったら人はモチベーションが上がるんだとか、役割を感じるんだとか、そうゆう事を私の中ですごく楽しんでて。人って、こうやったらこんなに伸びるんだ!とか。教育ってものをもっと追求したいと思っていると、知人を通じて、コスタリカで教育に関してとてもおもしろいことをやっている大学があることを知ったんです。」

またシノさんの人生が大きく展開する空気があたりに充満し始めた。

「留学というよりは、大学自体のモニターという形で3ヶ月間籍を置かせてもらいました。畜産系の大学で学生たちが日々やっていることを見せてもらうんですけど、大学があったのが田舎だったこともあって、英語が全く通じないんですよ。スペイン語だけ。私はほとんどスペイン語はわからない。なので、何をやっているのか想像するしかない。それが問題でした。もうちょっとちゃんと調べていくべきだったと、猛反省しましたね」

シノさんは、そう言いながら楽しそうに笑った。

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アシカがベンチに寝てるから

「大学での3ヶ月が終わった後、元々コーヒー好きだったので、中米から南米までコーヒー農園を見に行くことにしました。コスタリカからスタートして、パナマ、コロンビア、エクアドル、そして、ボリビア、ペルー、アルゼンチン、ブラジル。その間にパラグアイも。3ヶ月半くらいかけてぐるっと旅しましたね。」

シノさんの興味の方向の多様性は、ダイレクトにシノさんの行動に反映されている。それは、おそらく本人も予想しない形でやってきては反応するということを繰り返し、シノさんはすっかりそのこと夢中になっているようだが、むしろ、そんな自分自身を客観的に見て楽しんでいるかのようにも思える。

「旅の中で、一番インパクトが強かったのが、ぜんぜん行く予定じゃなかったガラパゴス諸島がすごかった。旅で出会った、世界一周されてる方に『絶対に行ったほうが良いところはどこですか?』って尋ねると、みんな口をそろえて『ガラパゴス諸島!』って言うんです。『アシカがベンチで寝てるから!』って。行ってみるとホントに天国みたいな感じのとこで。なんて言ったら良いんだろう?水平線と地平線が見えて、赤道直下で、宇宙に入っていくような感じで、龍宮城に行って帰ってくる、みたいな感じです。」

てんでよくわからない説明だけど、とにかく天国はすごそうだ。

「ガラパゴスに住んでいるのはエクアドル人なんですけど、自然を愛し自給自足の暮らしをしていて、主な産業が観光業だから英語とスペイン語も話せる。環境や文化についても残すべきものはちゃんと守るってスタンスがしっかりしている。彼らの生き方にすごく感銘を受けたし、共感できました。」

そう言って、シノさんは何度か大きく頷いた。
この話はその後、現在シノさんがいる鹿児島県阿久根市での活動へと繋がっていくことになる。
シノさんの人生が落ち着く気配はしばらくのところなさそうだ。

第2回終わり〜第3回へつづく

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取材/2020年9月19日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/ヒラナミ 写真/石川博己

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