Hikers

終わってないんだよ、俺は

秋田修 1

image

とりあえずテントを持って

「門司港に『tent.』という名前のバーがあるよ」って、アメリカの3大ロングトレイルの一つであるパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)を歩いてきた友人から教えてもらった。
バーのオーナーは、シュウさんと言って、同じように昨年PCTを歩いてきた北九州市小倉出身のハイカーだという。
九州在住のハイカーで、アメリカのロングトレイルを歩いた経験のある人をあまり知らなかった僕は、シュウさんにすぐに興味を持って、タイミングよく北九州で開催することになっていた『ハッピーハイカーズバー』という僕たちが開催しているイベントにゲストスピーカーとしてプレゼンテーションしてもらえないかとお願いした、というのが僕のシュウさんとの出会いだった。
イベントでは、『PCT』のことを中心に話してもらうようにお願いしたので、シュウさんは、トレイルや麓の町で出会った人々との思い出をたくさん語ってくれた。
話を聞いて、いつか自分もロングトレイルを歩いてみたいと思った人は少なくなかったはずだ。
僕は、昔少しだけ住んだことのあるカリフォルニアの乾いた空と、陽気なアメリカ人たちのことを懐かしく思いながら、ロングトレイルに思いを馳せた。

「20代は、門司港で『沖修理』と言って、沖に停泊している船にタグボートで近づいて行って、突貫工事でエンジンを直したりするような仕事をしていたんです。停泊中の船の修理って、時間がない中でやるんで徹夜になったり、すごく重労働なんです。でも、船の仕事の前は自動車の整備をしていたし、機械いじりが好きだったんですね。」

赤いパーカーに、トラッカーキャップを後ろ向きにかぶったまま、シュウさんは、ゆっくりと話し始めた。
イベントの後、シュウさんの話をもう少し聞いてみたいと思った僕は、早速、シュウさんにこのインタビューコーナーのために再び会えないかとメッセージを打った。少しだけ戸惑ったような返信テキストの後、『僕でよければ』と引き受けてくれた。

「若い頃は、パンクロックやロカビリーなんかの音楽が好きで遊んでたんですけど、不良文化の遊びにちょっと疲れてきちゃったんですよね。同時に、たまに一人で釣りに行ったりするのも好きだったので、もしかしたら『俺はアウトドア好きなんじゃないの?』って思ったんです。」

僕は、シュウさんのお店『tent.』のカウンターに座って話を聞かせてもらっていた。
廃材や知人のところから余った材料を集めて全て手作りしたという店内は、もうすでにずいぶん時間が流れているような雰囲気があったが、この店がオープンしたのは今年の5月ということだったので、まだ半年ほどしか経っていない。
シュウさんは、『お客さんに話す感じで』と言って、自分はカウンターの中に立って話してくれた。

「いろんなところへフライフィッシングに行っているうちに、宮崎のダムで、あるアウトドアブランドのショップの店長さんと知り合ったんです。一緒に釣りをするようになってしばらくして、『今度、北九州の方でうちのブランドのお店を出すから店長やってくんない?』って突然言われたんです。フライフィッシングをやっている人っていうのが店長の条件だったらしいんですが、あまり北九州にフライフィッシャーマンっていないんですよ。そんな縁で僕がそこで働くようになったんですけど、本格的なアウトドアのことは全然わかんない。お客さんと話すにしてももっと経験が必要だなと、とりあえずテントを持って屋久島に行こうって思い立ったんです。そっからですね、僕の山が始まったのは。

image

加藤則芳さんとJMT

『tent.』の隣の建物には、『中央市場』という赤い文字の看板が大きく掲げられている。ちょうどそこが門司港の中央市場の入口だった。今となっては、シャッターが閉じられた店がほとんどだが、かつては賑わっていたんだろう。

「初めて行った屋久島で、バックパッカーの加藤則芳さんの友人の方と山小屋で知り合ったんです。その時、その方から初めて『ロングトレイル』や『ジョン・ミューア・トレイル』の話を聞かせてもらったんです。」

加藤則芳さんは、日本を代表するバックパッカーで、『ロングトレイル』という言葉を日本に紹介した第一人者だ。そして、日本にもロングトレイルをと、信越トレイルの構想に尽力した。著書に『ジョン・ミューア・トレイルを行くーバックパッキング340キロ』『メインの森をめざして-アパラチアン・トレイル3500キロを歩く』など、ロングトレイルを紹介するものが多数ある。僕も『ジョン・ミューア・トレイルを行く』を読んでずいぶん影響を受けた口だ。惜しまれながらも、難病である筋萎縮性症候群(ALS)を発症し、2013年に享年63歳で亡くなった。

「僕が持っていたそれまでの登山のイメージは、おじさん主導の、いわゆるちょっと修行的な感じだったんですが、アメリカのロングトレイルっていうのは、日本の登山とも違う文化なんだなと、友人の方の話を聞きながら思ったんです。その後、加藤さんの本を買って読んで、『JMTを歩ける日がそのうち来たらいいな』っていう憧れをうっすら持つようになりましたね。

『ジョン・ミューア・トレイル』は、ロングトレイルの聖地とも呼ばれる、アメリカのカリフォルニア州のヨセミテからMt.ホイットニーまでの340キロを南北につなぐロングトレイルで、ナチェラリストであるジョン・ミューアにちなんで命名され、1938年に全ルートが開通した。
最近では人気のルートということで、人数規制がされているためパーミットを取るのもひと苦労だという話も聞いたことがある。

「それから、年月が流れて、アウトドアブランドの店の仕事を辞めたり、トラックの運転手をやったり、人生的にもいろいろあったけど、10年くらいたってようやくJMTを歩きに行くことになりました。43歳のときですね。

シュウさんは、当時のことを振り返っているのか、感慨深そうにそう言った。

「JMTは、歩いたのは21日間で、補給のために街に降りた日を入れると25日間ぐらいだったかな。」

僕は、JMTでのハイキングと日本での登山との違いについて尋ねた。
シュウさんは、「うーん、難しいな」と首をひねってから答えた。

「最初の印象は、歩いている人たちがみんな明るいってこと。それから、日本のように流行に左右されてないってことかな。バックパックやウェアも、みんなアウトドアメーカーじゃない普通の服着てたりとかしてます。なんだかハイキングに対しての文化の深さが違うなって感じた。当時、チラホラ雑誌で見ていたウルトラ・ライト・ハイキング(ULハイキング)っていうスタイルに対する印象も変わりました。JMTで出会ったおじいちゃんやおばあちゃんが、僕たちが憧れていたようなアメリカ製のULザックを背負ってたり、しかもボロボロになるまで使い込んでる。あれ、なんか俺が思ってたULハイキングとちょっと違うぞ、アメリカっていうのは面白いなって思いました。

シュウさんは笑いながらそう話した。
なるほどと頷いて、僕は話の続きを聞いた。

「逆に、本当に古い道具とかバックパックをあえて背負ってる若者がいたりするのを見るうちに、それまで自分も雑誌の情報や、アウトドアファッションの流行に振り回されていたんだなって思いました。こうじゃないといけないっていうはないですよね。もちろん基本的な部分はあるとは思うけど、なんでも決まりみたいに思い込んでアウトドアを楽しんでたけど、なんか、そういうことじゃないんじゃないかって思いましたね。」

image

なんか俺、笑ってねえな

日本の山と違って、カリフォルニアはハイキングシーズンにはほとんど雨が降らない土地だ。そういうことも、日本とカリフォルニアのハイキング文化の違いに影響を与えているのだろうか。

「それも逆に気づかされました。すると、日本の国産ブランドのレインウェアとかの方に興味がいったりしました。雨が降る日本で作っているレインウェアって凄いんだろうなって。海外のブランドには憧れるとこはありますけど、でも、雨が降ってないところで作っているレインウェアってどうなのって。道具をちゃんと見極めないといけないなっていうのもJMTを歩いていて思うようになりました。

確かに、アウトドアに限らず、それぞれの土地にはそれぞれの気候風土があって、その場所に見合った生活様式や道具が発達してきた。ハイキングの道具もその延長線上にあるという方が自然だろう。

「でも、JMTは、とにかくもう感激の毎日でしたね。1ヶ月だったから、自分の中でも想定しやすい日数でした。自分自身が壊れるっていう感じでもなく、楽しかったなっていうイメージで終われて、ハイキングに対しての気持ちが再燃しました。日本の山をまた歩きたいなっていう、いい感じの刺激をもらって帰ってこれた。いろんな意味でちょうど良かったです。

そういってニッコリと笑った後、シュウさんは思い出したように真顔に戻って話を続けた。

「でも僕が行った年に加藤さんが亡くなったんです。JMTに行くまで、加藤さんの本を読み込んでハマっていたから、JMTを歩いている間は加藤さんと会話してるような感じがしていました。『加藤さんもここで感動したんですね』とかって心の中で会話しながら歩くっていうのは不思議な感じでした。もちろん、僕の勝手な一方通行の会話ですけど。

シュウさんは、少し寂しそうな表情のまま笑った。
先の北九州でのPCTのプレゼンテーションではとにかく人との出会いが大きかったという話だったが、JMTではどうだったのかと僕は尋ねた。ロングトレイルを歩いて、人との出会いが一番大きかったという感想は、これまでに出会ったロングトレイルハイカーたちが口を揃えて言っていたので、それがどういう感じなのか僕は気になっていたのだ。

「歩いてるハイカーよりも、キャンプサイトとかで、地元の人に優しくしてもらったり、車で麓の売店まで連れてってもらったりとか、そういう触れ合いが嬉しかったし楽しかったです。『JMTをスルーハイクするために日本から来たんだって』って言うと、みんな『お前は凄い』って賞賛してくれる。アメリカ人はタフなものに憧れるって言うのも、なんとなくこういう感じなんだなって思いました。

懐かしいなぁというような顔をして、でシュウさんは当時の気持ちに戻っているかのように言った。

日本に帰ったシュウさんは、またトラックの運転手をしながら、九州の山を登る日々に戻り、再び、日常の瑣末の中で月日は流れていった。
そして、PCTがシュウさんにとっての次の転機となった。

「ロングトレイルに興味持って、『PCT』や『CDT』『AT』なんという、信じられないくらい長いのがあることを知ったんです。でも、半年かけて歩くなんて、ちょっと頭のおかしい人たちが行くもんだろうなって思ってました。僕自身が行くつもりなんか本当に全然なかった。でも、2、3年前に親父が死んじゃったりとか、僕自身も離婚したりってことがあって、『なんか俺、笑ってねえな』っていうことが気になりだした。ぜんぜん笑ってないし、物事をゆっくり考える時間さえないなって。でも、父親のことや離婚のことなんかを、ちゃんと噛み締めて考えてみたいって思ったんです。トラックを運転しているときに、ふと。で、本当に思いつきで『じゃあPCT行こう』って感じで始まったんですよね。

シュウさんは、目を細めて少し微笑み、カウンターの中から、太陽の日差しが眩しい店の外の通りを眺めながらそう言った。

第1回終わり〜第2回へつづく

1234

取材/2019年10月16日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/松岡朱香 写真/石川博己

facebookページ 公式インスタグラム