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縄文杉と事業家の血

藤山幸赳 1

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10人兄弟の末っ子

九州地方の梅雨のど真ん中に、僕たちは屋久島に向かった。屋久島生まれの登山ガイド、藤山幸赳(ゆきたけ)さんに会うためだった。僕とカメラマンの石川さんは、朝5時52分発の高速バス「桜島号」に乗り込み福岡を出発した。梅雨時期の天気予報は、スマホでチェックするたびにめまぐるしく変わっていた。小雨がバスの窓を濡らし、運転手さんがワイパーを動かすたびに、「雨は雨で屋久島っぽいですしね。」と自分たちを慰めるように僕たちは繰り返した。
ところが、鹿児島港から高速艇「トッピー」に乗り込む頃には、すっかり雨は上がり、梅雨の晴れ間に桜島が眩しかった。
やはり、屋久島といえ、晴れているに越したことはない。
高速艇が錦江湾を出る頃には、すっかり夏休み気分になっていた。

宮之浦港からバスに乗り、安房へと向かった。
屋久島で一番安いんじゃないかというゲストハウスは僕たちで貸し切りだった。
安房の集落や安房川のあたりを写真を撮りながらしばらくブラブラした後、川のほとりにある地元の居酒屋へ入り、藤山さんを待った。

「僕の実家が明星岳っていう山の麓にあるんですよ。松峯という、安房の近くです。」

ほどなく、仕事を終わらせた藤山さんがやってきた。藤山さんは、石川さんとは旧知の仲だったので、主に、僕のために自己紹介的に自分の話をしてくれた。
座敷のテーブルの上には、すでに三岳のボトルとトビウオの唐揚げなんかの屋久島らしい料理も並んでいた。

「屋久島の人ってあまり山に登らないんですよ。理由はいくつかあると思いますが、ひとつには屋久島は山岳信仰が強く、山に対して遊びに行く感覚がないんです。それから、林業が盛んで、僕の親父もそうですけど、休みの日にまで山に行きたくないんです。僕たち子供も、通学路が山越えだったし、山登りの遠足なんかあると、ちょっとダルいなぁって思ったり。だから、子供の頃は川で遊んでばかりでしたね。だから、僕の山登りは、大学で屋久島を離れてUターンで帰って来てからがスタートでしたね。」

山の近くに住む人が実はあまり山に登らないという話は、これまでにもあちこちで聞いた。屋久島でもそれは同じようだ。北海道や、東北、信州を訪れ、毎日のようにあちこちの山を登る僕を山に登らない地元の友人たちは呆れたように見る。

曾祖父の代から屋久島だという藤山さんに僕が根掘り葉掘り質問するうちに、話は大河ドラマのように幼少時代から現在に至るまで続いた。
僕は、藤山さんは10人兄弟の末っ子だということに驚き、強烈だったという父親のエピソードに聞き入った。

「親父は、信仰心、特に山の神様っていうのをとにかく大事にする人でしたね。よく山籠りもしていましたね。屋久島に有名なウィルソン株っていう大きい切り株があるんですが、その中に祠が祀ってあって、あの祠を立て替えたり、明星岳の山頂にも祠があるんですが、その祠もヘリコプターをチャーターして石材を上に持ち上げて勝手に建て直したりとかしちゃうような人ですね。派手で破天荒な人でしたね。」

そんな話をしながらも、藤山さん自身は、むしろ落ち着いた雰囲気なのがおもしろかった。

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コスト削減

中学生まで屋久島で育った藤山さんは、進学のため鹿児島や福岡で過ごした後、22歳で再び屋久島へと戻って来ることになった。

「一度は福岡で就職して一生懸命働いて、友達もいたし、そこそこ給料ももらえていたし、不自由していなかったんですが、ふと自分の将来のことを思ったときに、未来がぜんぜん思い浮かばなかったんです。じゃあ、未来じゃなくて過去を振り返ってみようって考えると、僕は誕生日が12月31日だったり、屋久島生まれだったり、家が代々続く事業家だったりってことを考えていたら、関係あることもないこともごちゃ混ぜになって、急に『俺は、屋久島でやるべきことがある』っていうひらめきがやってきて、その次の日に会社に辞表を出しました。」
そう言って、藤山さんは笑った。
辞表を出した2ヶ月後には屋久島に帰ってきたという。

「でも、帰ってきて何かすごいことを始めたということはなくて、親の会社の手伝いから始まった感じです。1年間はレンタカー屋で車洗いばっかりしてました。そのあとに、縄文杉トレッキングとかのツアーをやる会社で働くことになったんですが、僕は、内勤で山に行くことはなかったんです。それが、実は、その会社はあまり事業成果が良くなかったんですよ。ツアーはガイドさんにお願いしていたんですが、そのうちにガイドさんにお願いする余裕もなくなってきて、とうとう僕自身が勉強して山に登り始めたんです。僕は社員で月給だったので、回数に関係なく山に入れるから大きくコスト削減ができるというわけです。それが、僕がガイドの仕事を始めることになったきっかけです。」

山好きだからということではなく、会社の経営的選択で山に入るようになったというのは、ガイドの業界の中でもかなりレアなパターンだろう。

「だから、山登りが好きかっていうと、そのときはまだわからなかった。」

藤山さんは、なんだか申し訳ないというような顔をしてそう続けた。

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できたてホヤホヤ

「ガイドの資格って、その当時はまだほとんどなくて、島のおじいちゃんとか民宿のおじちゃんとかが小遣い稼ぎで登ってくることもあるような時代でしたね。」
会社の経営的選択でやむなくガイドとなった藤山さんは、現在、屋久島観光協会のガイド部会副部会長や屋久島山岳ガイド連盟幹事を務める登山ガイドだ。

「最初の5年間は毎日、縄文杉、毎日、白谷雲水峡みたいな感じでしたね。」
藤山さんは、笑ってそういった。
屋久島全体としてもガイドをつけたトレッキングというのが一般的になっていった時期と重なって、藤山さんの会社の経営は持ち直し、うまくいくようになったという。
同時に、大手の旅行会社も事業参入しはじめ、ガイド付きのツアーを積極的に売り始めるようになった。格安の航空券や高速バスも普及し、屋久島にも安く行けるようになったおかげで、ガイド費用を個人で負担する利用者も増えてきた。需要にともないガイドの人数も年々増加し、屋久島はトレッキングバブルのような時代へ入理、藤山さんも次第に山の人になっていった。
そんな最中、大きな事件がおこった。

「親父が亡くなっちゃったんです。そして、親父がやっていた運輸系の会社を引き継ぐことになったんです。バスとかタクシーとかレンタカーとかっていう、山のガイドとは全く別の業種です。」

勤め人の家に育った僕にはリアリティーがわかないような、事業家の大きな出来事だった。
藤山さんは、1年半ほどかけて、父親の形見ともいえる事業に携わり、その後も、兄弟が屋久島で行う他の事業にも関わるなどして、山からは離れる日々が続いた。
そして、今から7年ほど前に仲間と共同経営という形で登山ガイドの会社を自身で立ち上げた。

「屋久島ガイドツアーっていう、本当にガイドさんの会社を作ったんです。日帰り登山ツアーを中心にしつつ、たまに山中泊のツアーも幅広くやりました。ちょっと変わった事業でいうと、『トラベルポーター』っていう、30キロまでの荷物だったら屋久島から日本全国どこに送っても1,000円っていうサービスをやったんですよ。」

藤山さんは、藤山家の数々の事業を渡るうちに、自身の手腕も磨いていったようだ。
仲間との会社の経営はうまくいっていた。
しかし、そこは末っ子気質とでも言うのだろうか、あまのじゃくなところがあるのだろうか。
「実は、その会社からは僕は抜けて、また新しく『ワンダーマウンテン屋久島』っていう会社を6月の中頃に立ち上げたんですよ。」
僕は驚いた。それは、僕たちがこの話をしている数週間前のことだ。

「ほんと、できたてホヤホヤで。」
藤山さんは、にっこり笑って、三岳のグラスを傾けた。

「ガイド専門の事業と、屋久島のイベントやキャンペーンなどの情報を発信できるようなメディア的な要素も持つ方向でやって行きたいなと思ってるんですよね。今度は、仲間との連携もとりつつ、ほとんど一人でできるような規模で考えています。ウルトラライトですね。」

藤山さんはそういうと、またにっこり微笑んだ。
僕は、藤山さんにそうやって次々と事業を起こしていくモチベーションは何か聞いた。

「自己表現ですね。自分が思いついたアイデアを形にしたり、絵を描くのと同じで、自分が思いついたことに対して、プログラムやシステムを作って、協力してくれる仲間を集めて、一つの事業やサービスとして実現するのが楽しいんです。」

事業家の血が確かに藤山さんにも流れていた。

「あと、観光客や旅人の方々に屋久島でより楽しく過ごしてもらうにはどうすればいいのかということや、そうなることで結果的に屋久島がもっと良くなれば良いなとか、そんなことを考えることも大きなモチベーションのひとつになっています。」

藤山さんはそう付け加えた。
三岳のボトルにはまだ少し残っていたが、明日は一緒に山に入る予定にしていたので、僕たちはその辺りで切り上げることにした。
天気予報はどうなったのだろう。

第1回終わり〜第2回へつづく

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取材/2019年7月8日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/松岡朱香 写真/石川博己

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