Hikers

物理学者は今日も山を走る

天本徳浩

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練習は好きじゃない

天本徳浩さんが勤務する大学の研究室で、僕は、天本さんのトレイルランニングに関する話を聞いていた。
天本さんの1年のスケジュールは出たい大会に合わせて組み立てられているということを聞いて、平均すると年間に10本程度のレースに出ている計算になる生活が一体どんな感じなのか興味が湧いた。

「基本、練習はあんまり好きじゃないんですよね。くじゅうの山を縦断するような厳しい練習のときは、ひとりだったらめげそうになるんで人を巻き込んで一緒にやってもらってます。実家までロードで70キロあるんですが、『お盆にちょっと走って帰るんで、誰か行きませんか』って誘ったり。そんな感じの練習を積んで、この前の信越五岳で100マイルを完走ですることができました。」

練習が好きじゃないというのが意外だった。
『ゴールのイメージか描ければ完走できます』という天本さん言葉を思い返した。
そこまでになるために、ストイックに毎日練習を積み上げるものなのだろうと思ったからだ。

「信越五岳のときは、まずは霧島あたりの60キロくらいを走れるような体力をつけて、3ヶ月前から徐々に走る距離を延ばしていきます。そうするとだんだん登りに強くなったりとか、あまり疲れずに走れるようになってきます。大会の1ヶ月前っていうのは走り込み期間っていうふうに決めていて、350キロくらいは走りました。あと、夜間に走る練習や寝ないで走ったり、雨が降ったときにもレインウェアを着て走る練習をやったりしましたね。」

練習が好きじゃないというのは、何と比較して好きじゃないと言っているのか僕にはわからなくなった。好きじゃなければすでにこれだけ走るのも無理なのではないかと思う。

「すごくストイックな人は練習しすぎて故障するパターンが多いんですよ。でも、僕は練習は好きじゃないので毎日走るんじゃなくて1日あけるんです。年齢的なものもあるんですが、徐々にステップアップしていくという感じです。」

僕は、天本さんの話をうなずいて聞いてはいたが、1 日あけたからと言って、練習が好きじゃないということには僕は納得できなかった。でも、それは僕が練習好きな人のことを知らないからなのかもしれない。

痛い、苦しい、眠いは当たり前

僕の想像を絶することとして、100マイルのレースのような過酷なレースの中で、どうやって苦しいときを乗り越えて行くのだろうということがあった。

「UTMFのときは、相当練習して挑んだんですが、本番ではいろいろあって本当にギリギリな感じになっちゃったんです。もう泣きながら走ってたんですが、つらい練習を一緒にしたみんなの顔を思い浮かべると、辞めるわけにはいかなくて、最後の力を振り絞って走りました。そのときのゴールは本当に感極まるという感じでしたね。苦しさというのは、やっぱりメンタルの要素が大きいですね。僕の場合は、体が動かなくなったとかはあまりなくて、きついときに諦めたくなる弱い心を押さえつけるという感じですね。ウルトラやってると『痛い』『苦しい』『眠い』は当たり前なので、それは辞める理由にはならないですね。」

天本さんは、微笑みながらさらりと言った。ある種の麻痺的な感覚だろうが、体だけではなく、心に負けないようにすることで、潜在能力をどれだけ引き出せるかが長いレースの中ではとても重要になってくるということだろうか。「苦しい練習に耐え」というフレーズはどんなスポーツにも共通することだろうが、ウルトラトレイルレースのように本番で心身の極限まで追い込まれるようなものはそう多くはないように思えた。

「みんなそうだと思うんですけど、もう二度と走らないと思っていても、ゴールしたら苦しかったことだけ忘れていくんですよね。苦しかったことを忘れやすくして、良かったことだけを残すっていう人間の記憶の仕組みだと思うんですけど、レースの中でもそうなってるのかなって思います。」

出産の痛みを忘れるのは、エンドルフィンなどのホルモン分泌が影響しているという話を聞いたことがあるが、レースの辛さを忘れるのも同じ仕組みなのだろうか。

「レース中は、痛みや苦しみと戦ってるっていう意識はないんですよ。さっき言ったように、痛みや苦しみというのは当たり前で、それがレースなんですよ。ただ、本当にきついときは『何でエントリーしたんだろう』って思うことはありますけど、それは結局ゴールしてしばらくすると忘れちゃうんですよね。」天本さんはそう言ってニッコリと笑った。

実験の方法を研究している

話はガラッと変わるが、この文章のタイトルにもあるように、天本さんは、大学では物理学を教えている。僕は、わからないと覚悟の上で、具体的にどういうことを教えているのかたずねてみた。

「なかなか説明しにくいんですけど、今やってるのは、プランク定数っていうんですが、聞いたことないですか?」

もちろん、ない。僕は美術系の出身で、そこにプランク定数は存在していなかったと思う。光、電子、電磁波、素粒子論、LED、波長、etc.etc。天本さんは丁寧に説明してくれたけど、僕とっては完全にアウェイの言語だった。言葉自体は聞いたことはあったけど、それが何なのか全く理解していないということが再確認できただけだった。

「虹はわかりますか?」「わかります!」と、僕はここぞとばかりに大きくうなずいた。

「赤とか紫とかありますよね。赤の方が振動数が小さくて、紫の方が振動数が大きいんですね。それがエネルギーが高いっていうことになります。要するに原子のまわりの電子の回る場所が違うんですよ。」

「ぜんぜん、『要するに』になっていないじゃないですか、天本さん。」と、僕は内心つぶやいたが、天本さんは、僕が聞いたことに誠実に答えてくれているだけで、これはすべて僕側の問題だった。最終的に「プランク定数とは」、というところまで天本さんは丁寧に説明してくれたのだが、僕には分からずじまいで終わってしまい非常に申し訳なかった。

「僕はこのプランク定数がどのくらいの大きさかっていうのを、学生たちが簡単に出せる実験の方法を研究してるんです。」実験の方法を研究している、この言葉に僕は反応した。『パズルを解くような感じでレースの準備をしていく』という、先に聞いた天本さんの話に共通する部分があるような気がしたかたらだ。どちらも、こうやって装置を準備してスイッチ押せば電気が流れるよ、というような方法と結果の話をしているように聞こえた。

「そうですね、理系的な考え方かもしれないですね。」天本さんは、うなずいて話を続けた。

「まずは、区間ごとの累積標高や距離と自分の走力と照らせ合わせて関門ごとの通過時間を割り出したプランを作るんです。初めて出る大会は自分がどれくらいで走れるかわからないですが、僕は、だいたいトップランナーの1.5倍くらいのペースなんで、それで関門にかからなければいけるかなと考えます。UTMFは速い選手と遅い選手の通過時刻が公表されているので、僕はその遅い選手の0.9掛けくらいで行こうとかプランしていくんです。」

「定数があるんですね!」僕は自分の直感が正しかったことにうれしくなった。そして、それは僕が偏見的に感じていた、トレイルランナーには知的な雰囲気を持った人が多い気がする、ということもあながち的外れでもなかったということも証明してくれた。

「気温が下がったときの対応策とか、長いレースでは、水、カロリー、塩分をどう補給するかなどをちゃんと計画していないとおそらく完走できません。そういう知識や経験がないと、胃が悪くなったり、脱水症状や熱中症になったりしてリタイヤすることになってしまいます。」

天本さんの話を、『体を道具としてどう稼働させていくかをコントロールする』ということとして僕は理解した。知識と経験をもとに計画し実行する。それは、シンプルではあるがイージーではない。

「そうですね。距離が長くなるとやっぱり難しくなります。体力だけじゃどうしようもないところがあるので、休憩を入れたり、補給したり。やっぱり経験も必要だけど、知識としてもやっとかないとなかなか対応できないかなと思いますね。」

天本さんのウルトラトレイルへの向き合い方の話は、僕たちが生活していく上での方法論の話として読みかえることもできると思えた。もっと大げさに言ってもよければ、これは僕にとって「生き方」の話だった。

「ちなみに僕は同じ大会にはあまり連続で出てないんです。まだ出たことのない新しいレースに向かうその過程がなんか楽しいなと思って。」

なるほど。天本先生の話は、トレイルランニングも物理も理解していない僕にもしっかりと腑に落ちた。

第2回終わり〜第3回へつづく

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取材/2018年10月11日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/松岡朱香 写真/石川博己

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