Hikers

汝の欲することをなせ、ってね

大石剛司 1

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お前何者だ?

「生まれは、佐賀なんですよ。東脊振村といって、今では五箇山ダムに沈んだ山の中の村です。」

大石剛司さんは、ジムのベンチに腰掛けて話を始めた。
大石さんの経営する「リード クライミングジム」は、福岡都市高速の環状線のすぐ外側の県道沿いにあった。福岡ではめずらしい、ロープを使ったリードクライミングができるジムだ。
僕たちが開店前のジムに着いたとき、大石さんは電源コードを長く伸ばした掃除機を引っ張ってボルダリングエリアのマットを掃除しているところだった。

「宝満山に一人で登っているときに、正面道の途中から左に入っていくと、羅漢沢っていう、水害のときに崩れてできた谷があるんです。そこの横をいつも登っていくんですが、水場のところでその沢の上の方をじっと見上げている人がいたんです。」

僕が、山を登るようになった頃の話をしてほしいとお願いすると、大石さんは少し考えてこう話し始めた。

「その人が見ている方を見ると、斜面に高さ10mくらいの露出した岩場があった。まさかここを登るんじゃないよねって思ってたら、その人、そっちの方へ消えていったんです。岩の上の方にもまだ何かありそうな感じで、それがすごく印象に残ったんですよ。その頃の自分は毎週のように宝満山をがむしゃらに登るばっかりだったんで、ワクワクするような気持ちになりました。」

大石さんは、僕の方を見てそう話し、にっこりと笑った。

「しばらくたって、自分もそこに登ってみようと思い立ち、カラビナをつけた長いスリングをハーネスに2つ付けて、ハンマーとハーケン持って、見よう見まねで登り始めたんです。少し登ってハーケンを岩に打って、それにカラビナを掛けて、また少し登って次のハーケンにもう一本のカラビナを掛けてって。でも登ってるうちに、このやり方では登れないところが出てきたんです。」

僕の知っている現代のクライミングからは程遠いスタイルだった。
僕は、ハーケンも打ったことがないし、ロープもビレイヤーもなしでそんな岩壁に取り付いたこともない。

「どうやって登ればいいのかを山の店に聞きに行って、『こういう岩があって、自分で登ってみたいと思ってるんですけど』って説明したら、『お前何者だ? そんな危険なこと絶対するな。ちゃんとまともに覚えれ』って説教されたんです。そういうことがあって、勤めていた福岡市役所の山岳部に入ったんです。27歳の時ですね。」

何でもないことのように大石さんは話した。穏やかな印象の大石さんのややもすると無謀ともとられるような行動の話に僕は少し驚いた。

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パンティストッキングを履いてきた

「とにかく毎週宝満山に登っていましたね。当時の記録を見ると、一番速かったのは、竈門神社から宝満の頂上までを29分っていうのがありました。ランニングスタイルですね。今はもう1時間半くらいはかかりますけど。」

竈門神社から宝満山の山頂までというと、普通のコースタイムで2時間半くらいじゃなかったっけと、僕は驚きを隠せず、思わず「え?29分?」と声をあげた。 大石さんは、気にしない様子で話を先に進めた。

「福岡市役所山岳部に入って、そこで福原と会ったんです。」

「福原」というのは、このウェブマガジンの連載の一人目として話を聞かせてもらった、福原正夫さんのことだ。

「福原の方が6つか7つ年下ですが、とにかくすごかったんです。私は体力には自信があったんですが、福原は体力も私より強かった。阿蘇の合宿で先輩と一緒に鷲ヶ峰の岩場に行ったんですよ。垂直の壁が出てきて、私と先輩はおよび腰でいるのに、福原はひょうひょうと登るんですよ。怖がっている風でもない。すごい奴がいるな、と思いましたね。3日間くらい山に入っていても疲れも見せない。それからずっと、福原は私の目標のようになって、彼に引っ張られるようにどんどん難しい山へも行くようになりましたね。」

福原さんことを本当にすごいと思っているということが、いくぶん語気を強めた大石さんの話ぶりで伝わってきた。
福原さんにインタビューさせてもらった時に本人から聞いた感じとはずいぶん印象が違った。
僕は、市役所の山岳部の活動について聞いた。

「近郊の山に登る月例山行と、それぞれ1週間くらいの夏合宿と冬合宿があったんです。北アルプスが多かったですね。冬合宿に参加するためには、成しとげないといけない関門のような行事があったんです。そのひとつが12月に開催する若杉宝満クロスカントリーでした。若杉楽園キャンプ場に集合してそこから雪もあるルートを竈門神社まで走るんです。それに参加するのが一つ目の条件。」

まだトレイル・ランニングという言葉がなかった時代の話だ。
きっと当時はどこの山岳会でも、似たようなことはやっていたのだろう。

「それから、阿蘇の龍尾根っていう崩れそうなギザギザのヤセ尾根をザックに25キロの石を入れて、鷲ヶ峰までの長いルートをロープもなしで行くっていうのが二つ目の条件。両方できたら冬山に連れて行くよっていうことで、それを毎年やるんですよ。そういうことをやってるうちに段々と自信もついて、強くなって行きましたね。」

今となっては、いろんな意味で社会的に批判を受けそうな気もするが、みんなが何かにどうしようもなく熱くなっていた時代のことを僕は少し羨ましく思って聞いていた。 大石さんは、懐かしむような笑みを浮かべて話した。

「若杉宝満のクロスカントリーでの私の最高タイムが2時間1分だったんですよ。福原は1時間43分です。その差はすごいですね。18分の差は埋められない。わたしも遅い方じゃなかったんですけど、福原はすごかった。」

福原さんの強さや早さを、大石さんは嬉しそうに話した。
その感じがとても良かった。
福原さんの話はしばらく続いた。

「福原は、速いだけじゃなくて色々と工夫をするんですよ。当時は、クロスカントリーを走るのに、だいたいジャージ姿に登山靴だったんですが、あいつはですね、奥さんのパンティストッキングを履いてきたんですよ。その上に、ランニングパンツを履いて、足元はジョギングシューズ。ビックリしましたよ、そういうこともありなんだって。速くなるための肉体的な努力だけでなく、ちゃんと道具や装備の工夫もする。福原は、そういうやつなんです。」

大石さんは、自慢の息子の話でもするように、にっこりと笑って福原さんのことを話した。

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参加者としては最高齢

「30代半ばは、トライアスロンに興味があったんですよ。子供の頃から水泳をやっていたし、走れるようにもなった。あとは、自転車を練習すればトライアスロンに出られると思って。でも、頑張りすぎたんですね。泳いで、走って、自転車乗ってって練習しすぎて、結核になったんです。結核菌は検出されなかったから、肉体的な負担の少ないところに配置転換してもらい、働きながら通院治療することになりました。」

大石さんの話は大きく舵を切り、声のトーンは少し下がった。

「35歳のときでした。治療に38歳までの丸3年かかり、治ってから体力を元に戻すまでにはさらに1、2年かかったので、40歳くらいまでは何もできなかったんです。」

大石さんは触れなかったが、それまでの活動を考えると、この長い治療期間は肉体的にだけではなく、精神的にも相当苦しかったに違いない。

「また福原の話になりますが、1990年に福岡で国体があったときに、彼は、優勝して天皇杯をとっているんですよ。自分は治療中で何もできなかったので大会の競技スタッフをしてました。でも、その年の優勝以降、福岡県の成績はずっと低迷して、全国で30番とか40番あたりをウロウロしていたんです。悔しかったんでしょうね、『もう一回上げよう。大石さん出る気はないね?』って福原に言われて。それから再び練習を始めて、大阪国体に福原と福田さんというすごいランナーとの3人で出たんです。」

結核でのブランクを乗り越え、40歳を過ぎて、大石さんは山岳競技の世界へと足を踏み入れた。
それはきっと並大抵のことではない。

「結果は、強い二人に引っ張られたっていうのもあって、総合で5位になったんですよ。自分でも輝かしい記録です。正式に残るような記録はそれまでなかったから。」

大石さんは、遠慮がちに微笑んでそう言った。

そのとき、大石さんは42歳だったという。
国体参加者の平均年齢からすると、もちろんはるかに上だった。

「結局、国体には3回出ました。大阪の後、熊本と富山。富山のときは50歳で参加者としては最高齢でした。成績はボロボロでしたけどね。それが選手として出た最後でした。」

大石さんは、そう言って楽しそうに笑った。
国体というのは、若い選手のものだと僕は勝手に思い込んでいた。50歳で県の代表として参加するということに単純に驚いたと同時に、素直に尊敬した。 49歳の僕にしてみれば、目の前の大石さんはリアルに超人だった。
その間、競技以外での登山はどうなったのだろう。

「近郊の山は登っていましたね。山岳部のときは、最終的にはみんなヒマラヤを目指すんですが、私はヒマラヤに到達する前に病気になってしまいました。50歳を過ぎてからは、山よりもスキーをしていましたね。それから、クライミングが向いていると思うようになりました。55歳の時に初めて5.12aを登れたんです。『年とっても登れるじゃん』って思いましたね。」

穏やかな雰囲気からは想定していなかった、大石さんのライフストーリーは興味深いだけでなく、長く山に関わっていきたいと思っているすべての人に勇気と希望を与えるものだった。
この後、大石さんと山のかかわりの話の熱量はさらに上がっていくことになる。

第1回終わり〜第2回へつづく

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取材/2020年3月16日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/松岡朱香 写真/石川博己

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