Hikers

汝の欲することをなせ、ってね

大石剛司 2

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死をも厭わない時代

大石剛司さんの経営する「リード クライミングジム」で、大石さんの山の話の続きを聞いていた。僕たち以外誰もいない開店前のジムは、ひっそりとしている。

「重藤さんは、『ラリーグラス』を紺屋町で始めたんです。私たち、市役所山岳部には少し安くしてくれたので、みんなそこで買ってましたね。重藤さんって言ってますが、今は浦さんですね。」

「ラリーグラス」は、福岡のアウトドアショップの老舗で、福岡の山を歩く人ならおそらく誰もが知っている店だ。以前は、クライミングジムも経営していて僕もそのジムに通っていた。
大石さんの言う「ラリーグラスの重藤さん」は、宝満山の麓にある「山の図書館の重藤さん」のお兄さんだ。「山の図書館の重藤さん」にはハッピーハイカーズで度々お世話になっている。このコーナーでも以前インタビューさせていただいた。

「重藤さんは、とつとつと話すものすごく誠実な人で、すぐにいい人だなって思って、僕は『ラリーグラス』にずっと通っていたんです。少し後で知ったんですが、実は、当時から重藤さんはとても有名なクライマーだったんですよ。その頃の一番先端的なクライミングをやっていましたね。その重藤さんが、クライミング教室をするというので生徒として参加させてもらったんです。だから、私のクライミングの先生は重藤さんなんです。」

まだインドアのクライミングジムがなかった時代の話だ。練習は、毎週1回、野北の山でやっていたそうだ。

「山岳部の先輩から『俺の後をお前がせれ』って言われて、福岡市山岳協会の仕事を引き受けることになったんですよ。会議に行ってみると、重藤さんが会長で私が総務担当理事になった。そういった縁で、重藤さんとは山岳協会でも7年くらいの付き合いになりました。」

その頃と今では山を取り巻く社会や文化も随分と違っていただろう。どんな時代だったんだろうかと、僕は大石さんに尋ねた。

「大げさに言ったら死をも厭わないという感じでしたね。まだピークハンティングが主流でしたから、福岡からも遠征隊が出て、山岳部の先輩が副隊長になってK2へも行ったんです。山のためには仕事も投げ打って行くぞっていう意気込みがあった時代ですよね。徐々にピークハンティングをするところもなくなって、別のルート開拓や無酸素での登頂へと移っていきました。その後、ジョン・バーカーがヨセミテを登りだして、フリークライミングの時代に入っていきました。」

山が一番熱かった時代だったのだろう。山そのものは当時と何も変わらないが、山との関わりはどんどんと細分化し洗練されていった。トレイルランニングやインドアクライミングのように盛り上がっている新しいジャンルもあるが、そこにお互いが熱く語り合える共通の話題はほとんどないようにも思える。

「競技もしていたし、なんもかんもぶつけるぞっていう感じで全力投球でしたね。余裕がないという風に思われるかもしれませんが、当時の私には、そういう楽しみ方が性に合っていたんでしょうね。」

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冬山とヒッピー

大石さんは、まさにスポ根全盛期に思春期を過ごした世代だった。日本中の若者が熱く燃えていたのだろう。

「昭和25年生まれの団塊の世代だからですね、生まれたときから競争なんです。なんにしても人が多い。中学の頃は1クラス50人で13組まであるんです。凄いですよね。運動場にも人がいっぱいいて、遠慮していたら何もできない。みんな競争している。どこにいても人ばかりです。」

僕は、1971年生まれの団塊ジュニアと呼ばれる第2次ベビーブームに当たる世代だ。僕らのときも大石さんのときと同じくらい子供が多かったが、競争意識はその頃までにはいくぶん薄まっていたようであまり記憶にない。
世代としての生き方が染み付くのは、団塊の世代に限らずともあるだろう。大石さんたちの後には、シラケ世代やバブル世代などが続いたし、最近では、ユトリ世代やそのあとのサトリ世代などは記憶に新しい。僕たちは、それぞれの世代の空気を吸って大人になり、それは、体の奥底にひっそりと居座っている。

「努力すれば報われるっていうのが前提なんです。だから努力する、競争する、そして勝つことが報われるってことだということが、どの場面にもありました。それがリセットされたように感じたのはずっと年をとった最近のことですね。病気のせいもあったと思うんですけど、世の中の見方がずいぶん変わりましたね。」

大石さんは、それを「主観からの解放」と説明してくれた。僕は文学的、哲学的な色彩を濃くしていく大石さんの話に、どんどんと引き込まれていった。

「それから、アメリカでヒッピー文化が始まったのも大きいと思うんですよ。ジャック・ケルアックの『路上』がバイブルでした。それから、フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュワ物語』ですね。その中で、『汝の欲することをなせ!』っていうセリフがあるんです。それが、私たちには染み付いているんです。自分のやりたいことをやるんだっていう、そのひとことがね。」

今、僕たちが夢中になっているアウトドアアクティビティーはアメリカのヒッピーたちが始めたものが少なくない。フリークライミングも、バックパッキング、サーフィンやバックカントリースキーもヒッピーたちが自然へと向かう中で出てきたカルチャーだ。

「最初は拒否してたんです。『冬山やってる人間は、やりたいことばっかりやってるヒッピーとは違う』って反発していたんですが、だんだんやってることが似ていることに気づいてきたんです。僕らは山へ行くのに大きな荷物を担いで、駅のベンチでもどこでも寝るじゃないですか。なんか、これってヒッピーみたいだって。そう思えるようになると、いろんなことが楽しくなりましたね。」

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ひと晩寝れば回復

僕は、そんな時代の大石さんの山についての話が聞きたかった。

「北アルプスの『滝谷』を市役所山岳部の部員と登ってたんです。『滝谷』にはもう何度も登っていたので、少し飽きていたんですよね。最後に『ダイヤモンドフェース』っていう、その当時の一番難しいところを登って『滝谷』は終わりにしようって、2人で登り始めたんです。そしたら、テラスに出た後の2ピッチ目で友達が落ちたんです。その頃はビレイデバイスはまだなかったので、肩がらみや腰がらみのビレイです。気づいたら、目の前にそいつの足があって、私は宙釣りになって『滝谷』の真ん中でハーケン1本で止まってました。1本目が抜けたのは見えたんです。『うわっー!』って思ったら2本目でかろうじて止まってました。ロープでひどく火傷をしたけど、なんとか助かりました。」

「そこからどうやって降りたんですか?」僕は、話の先を急かした。

「一番下まで降りて、また登り返したんです。」

実際にそれがどれほど大変なことなのか想像さえできなかったが、たとえできたとしても、それが僕の想像の範囲は超えているであろうことは理解できた。

「涸沢にベースを張って、今日はこっち、明日はあっちというように登ってました。北穂に行って、滝谷の下まで降りて、登り返して涸沢に戻ってくるようなことの繰り返しをしているんだから相当体力があったんでしょうね。」

大石さんは、さほど大したことでもないかのようにそう言って笑った。

「それから涸沢といえばフーテン文化ですね。涸沢村の村長とか勝手に名乗って住み着いている人がいるんです。山を降りる人から食料をもらって、涸沢の真ん中に岩小屋を作って暮らしてるんですよ。10人くらいいたと思います。その中にあの長谷川恒男さんもいたりしてね。」

今の涸沢からは想像できなかったが、そういうことが黙認されていた時代を羨ましく思う。

「私たちもそこに混ぜてもらってワイワイやりながら、火傷した体で登り続けていました。朝、涸沢から屏風まで降りて行って、東壁大スラブを登って、また涸沢に戻ってきても、ひと晩寝れば回復してる。ひとごとのようですが、凄いなと思いますね。」

大石さんは、本当にひとごとのように話した。31歳か32歳の頃だという。体力に加えて技術と経験も積み上がった、クライマーとしての脂が乗った頃だろう。

「落ちた友達とのザイルパートナーは長く続いたんですが、その友達がよく落ちるんですよ。それに体重が重いんです。私が55kgで、彼は75kgくらいある。彼が落ちるたびに、いつも私が宙に浮き上がるんですよ。」

大石さんは楽しそうにそう言って、当時を懐かしむように笑った。

「彼は私と同じ世代だったんですが、市役所を途中で辞めてアラスカに行っちゃいました。その後は、アメリカの居住権をとっていろんなことをしていましたね。私がこうしたいなっていうことを彼はどんどんやっていましたね。」

大石さんの「こうしたいな」は、僕のイメージする役所の人からはかけ離れていたが、人は見かけや仕事によらずいろんな人がいるんだなと、柔和な大石さんのぶっ飛んだ話を聞きながら僕は思った。

第2回終わり〜第3回へつづく

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取材/2020年3月16日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/松岡朱香 写真/石川博己

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