Hikers

GHT、1,700㎞のあたりまえの道

山口千絵子

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パソコンで情報が見つからない

「2015年にネパールの震災があって、何か私にもできることがないかと現地の登山エージェントである知人に連絡をとると、『ネパールは大丈夫です。モノやお金はいらないから、とにかく元気なネパールを見に来てください』ということだったんです。」

山口千絵子さんはGHTを歩くことになったきっかけを僕に話してくれた。「GHT」とは、グレート・ヒマラヤ・トレイルの略で、ヒマラヤ沿いにネパールを東西に横断する全長 1,700㎞に及ぶロングトレイルのことだ。

アジアの最貧国のひとつといわれるネパールにとって、観光産業は大きな収入源である。しかし、震災の影響により2015年の秋からは外国からの登山者や観光客のキャンセルが相次いだ。そして、ガイドやポーター、沿道のロッジの現金収入が立たれてしまったのだと、山口さんは説明してくれた。
「元気なネパールを見にきてください。」そう告げられた山口さんは、後先を考えることなく「GHT、行きます!」と即答してしまったという。そして、2015年と2016年の2回にわたってネパールをおとずれ、GHTを歩くことになった。

「GHTはもともとネパールの山で暮らす人々の生活道です。それをトレイルとしてつないで、グレート・ヒマラヤ・トレイルと銘打ってネパール政府が公表したのが2010年です。私は、ちょうどその前年にナヤカンという、ランタンエリアの山に登りに行ってたんですよ。そのときに、知人の登山エージェントの事務所にGHTの大きなポスターが貼ってあったんです。すごい大ルートだなと思ったんですが、年齢や経済力を考えたらとても行けないだろうなと思っていました。」

それでも、GHTに興味を持った山口さんは日本へ戻ってからもGHTのことを調べてみたようだ。

「パソコンで日本語の情報を検索しても全然出てきませんでしたね。英語の情報はいくらかあったんですが、英語は得意でないのでよくわからないし。ネパールによく行く先輩に、タメルで地図を探して来てくださいってずっとお願いしていたんですけど、ざっくりした地図ばかりで、ちゃんとしたものがなかなか手に入りませんでしたね。道自体も生活道なので、雪解けで春に道がなくなっていたり、モンスーンの雨で流されたりするので、しょっちゅう変わっているようでした。でも、ついにGHTの公式の地図を先輩がネパールで手に入れてきてくれたんです。それを眺めているうちに、これはいつか行こうとフツフツと企みはじめましたね。」

そう言って、山口さんは、何やら新しいイタズラを思いついたというふうに、にっこりと笑った。

内心は真っ青

それでは、GHTというのは具体的にどういうトレッキングのルートなのだろう。

「本当にチベット寄りのルートなんですよ。ですから、チベット語ができるガイドをつけないと無理だということで、チェビさんにお願いしてくれたんです。」

チェビさんは、チベットのボテ族の血筋で、祖父母の代にチベットからネパールへ移住してきたそうだ。
山口さんがGHTのことを自ら綴った文章の中に、ガイドのチェビさんが山口さんにGHTを歩くにあたっての計画を説明するくだりがあった。
『シェルパニ・コル(6,190m)、ウエスト・コル(6,180m)、アマラプチャ(5,845m)、テシラプチャ(5,755m)の四つの困難な峠越えがあり、フィックスロープを400m準備する。また、ポーターも強い者でないと突破できないので、カトマンドゥからホングン出身者を2名連れて行く』と山口さんは伝えられた。
エベレスト街道のように、いく先々にロッジがあると想像していた山口さんは途端に内心真っ青になったそうだ。現地のガイドやポーターにとっても困難な旅となりそうだった。

山口さんは、先輩が買ってきてくれたという唯一のGHTの地図を広げて見せてくれた。

「GHTといっても、この地図が手に入っただけで、行程をたてようにも、どのくらいの時間がかかるとかいうのがまったくわからなかったんです。だからネパールに着いてから、現地でエージェントの方とチェビさんと私の3人で計画することになりました。GHTには、アッパールートとローワールートの2本のルートがあるんです。この赤い点線がアッパールートで、私たちは最北のルートを通りました。グリーンの点線はローワールートで、村をつないで歩くルートになっています。」

ヒマラヤの山々を見るトレッキングにいつか行ってみたいと思っていた僕は、山口さんが広げた地図にかぶりついて山口さんの話を聞いた。

「9月からスタートして、1月までの5ヶ月間で全部一度に歩けると思ったんですよ。ビザも5ヶ月までしか取れないし、話を聞いてると5ヶ月あれば行けるでしょうということだったんで。9月は雨期の終わりなんですよ。せっかく歩くのだからいい景色も見たい、ただ長い距離を早く歩くだけではつまらないですよね。私は、スタートにあたるカンチェンジュンガのエリアが一番好きですね。ここからマカルーまでのエリアがとても良かったです。」

そして私はまた泣いた

カンチェンジュンガやマカルーという響きだけで僕の心の標高がグンと上がった。
しかし、山口さんのGHTはスタートから様々な困難が待ち受けていた。
その年の9月のカトマンドゥは、新憲法制定に絡む反対派による抗議活動の真最中で、道路にはバリケードが築かれ、ローカルバスは投石を警戒して車内灯を消して走った。車内は排ガスや屎尿臭が立ち込め、山口さんは、飛び回る蚊に刺され、排ガスにやられて鼻血を流し、同時に見舞われた頭痛、腰痛、発熱などで発狂寸前だったと振り返る。そんななか、カトマンドゥからトレッキングのスタート地点であるイラム・タプレジュンへ移動するだけでも丸三日かかったという。

そして、トレッキングが始まると、地震による地滑りでルートが消失しての迂回や大量のヒルに襲われたりと一筋縄には行かない。
途中では、ガイドとポーターの故郷であるホングンの村に立ち寄り歓待を受けたり、ちょうど村の老婆が亡くなったところでその死者を送る行事に居合わせた。
履いていたトレッキングシューズのソールは、1ヶ月も経たない間に溶けるように減っていった。
地震で落ちた巨石に潰されたテントからは、周囲に衣類や道具が散乱していた。ポーターたちは使えそうなものを拾い喜んでいた。驚いたが、よく考えると使えるものは使うという、これも循環型ということだろうと、山口さんは語った。
山口さんは、GHTをただ歩くだけではなく、ガイドのチェビさんやポーターたち、そしてネパールから多くのことを感じ、教えられ、学んだ。
ここには書ききれない、語りつくせないたくさんのエピソードがあった。

僕は、山口さんにそもそもガイドやポーターを雇うことは必須なのか質問した。もし、自力で歩けるのであれば費用面でも現実性が出てくるのではないかと思ったからだ。

「行けるかといえばいけると思います。ただ、現地の言葉がわからないと難しいように思います。日本では単独行だとかソロだとかありがたがられますけど、ネパールはやっぱりネパール人と歩いた方が楽しいと私は思います。私の場合は、震災支援をトレッキングという形でしようと思ったので、ネパールで彼らにお金を落とすというのが目的のひとつでもあったんです。そういうことでなくても、ぜひ皆さんにも現地の人と歩くことをおすすめしたいです。」

なるほど、確かに、いわゆるトレッキングルートではなく、生活道をつなげて歩くというのはそういうことなのだ。要するに、登山客やハイカー向けの整備はされていないと僕は理解した。

「11月の中旬くらいからは先に進めず、結局、西北ネパールには行けなかったんです。そこから先は、ほとんど民家がないのと、11月になると雪と風のシーズンを迎えるので、村人がみんな標高の低いところに降りてしまうんですよ。そうすると食料の調達ができなくなるし、生活道も雪で隠れてしまったら通れなくなるんです。」

『Day 90アッパールート 22番目の峠、トロン・ラを最後に私たちはムクチナートへおりた。』と、山口さんの記録にはあった。そして、文章はこう続いていた。『あの峠、このコルと、鮮やかに思い出され涙が出る。3ヶ月のGHTは私だけでなく、チーム・ボテの皆も感慨深かったのだろう。ランチタイムから夜遅くまでボテ・ソングを歌い、シェルパ・ダンスのステップを踏んでいた。ポーターのアンジュクさんが私に向かい「ディディ(お姉さん)」と呼びかけ合掌する。それを見て私はまた泣いた。』

山口さんのGHTの前半はそう締めくくられていた。

第2回終わり〜第3回へつづく

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取材/2018年7月5日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/松岡朱香 写真/石川博己

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