Hikers

GHT、1,700㎞のあたりまえの道

山口千絵子

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旅は終わった

僕たちは、グレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)の旅の話を山口千絵子さんに聞いていた。
それまで激しく降っていた外の雨は止んだようだ。
GHTの旅のガイドを務めたネパール人のチェビさんもちょうど訪日中で、同席してくれている。
山口さんは、GHTを2年にまたいで踏破していて、1年目はアッパールート22番目の峠である、トロン・ラで終わりとし、チベット仏教やヒンドゥー教の聖地であるムクチナートの街へ下った。出発して90日がたっていた。様々な困難な道を共にした一行は、単なるトレッキング客と雇われているガイドやポーターという関係を超えて、「チーム・ボテ」の仲間としてみんなが意識するようになっていた。山口さんは、「来年また来ます。必ず、GHTを踏破します。」とチーム・ボテの仲間と固く約束してネパールを後にした。

12月に日本へ帰国し、山口さんは翌年のGHT遠征の資金を調達すべく必死で働いた。
年が明け、2016年となった元旦も仕事をしていた。日々の生活は節約し、全て次の遠征のために蓄えた。『どんなことをしても必ず行く』と、仲間と交わした固い約束にしがみついた。 そして、2016年9月16日、山口さんは再びGHTの旅路を歩き始めた。

山口さんの旅の記録を読むかぎり、GHTの後半は、前半と比べると穏やかというか、明るい雰囲気を感じた。前半には度々あった大きく感情的になるようなところはあまり見受けられず、むしろ、困難にも馴れ、肝の座ったような印象を受けるくらいだった。当然、大変なことや辛いこともあっただろうが、そのことで騒いだり泣いたりしたということをいちいち書き記すことはなかった。

『貧乏自慢』『色彩の王国 Mustangへ』『Part2が始まる』『二人のサンブー』『チェビさんのそろばん』『幻想の夜』『Chharka Bhot』『ノーパン』『もののけの村』『米で胸やけ』『辺境ポリス』『ネパールの子』『ビッグ・ラマ』『モンキー・ルート』『ガムガディ』『ダサイン・フェスティバル』『毒の水』『オッコルを拾いながら』『FAR WEST・天駆ける馬』これは、山口さんの旅の記録の後半部分の見出しを並べたものだ。僕だけ読ませてもらって少し後ろめたい感じもあるし、この旅の細部にわたってもちろん色々と書きたいとも思う。しかし、それは4万〜5万字、もしくはそれ以上におよぶと思われる山口さんの旅の記録を端折ることになり、そして、それは山口さんの旅そのものを端折ることのような気がして僕にはできそうにない。何かの形で山口さんの旅の記録をこのウェブサイトで紹介させてもらえないかと考えているのだが、どうでしょうか、山口さん?

そういうことで、大変申し訳ないが、ここでは山口さんの旅は突然終わりを迎えてもらう。
せめて、最後にGHTの西端であるヒルサの村に到着して旅を終えたときの記述をここに引用させていただく。

『風を避けて車道に座り込み、ヒルサの村を見下ろしながらザックにしのばせたラサ・ビジュ(ビール)でチェビさんと乾杯。冷た過ぎて食道が凍りつきそうだ。充実感でも達成感でもなく、寂しいのとも違う、ただ「到達した…。」二人とも無言。(中略)どこからかチェビさんが大石を担いで来てGHT完踏をマジックで印そうと言う。強い風に互いの声も聞き取りにくい。この夜は静かで暖かい幕地だったのに何故か眠れなかった。聞くと、キッチン・テントの皆もそうだったらしい。私達チーム・ボテの旅は終わった。』

旅が終わって

実は、僕にとってはここからが山口さんに聞きたかった話の本題だった。もちろん、旅の道中の話もとても興味深かいのだが、それ以上に旅を終えた山口さんが日本へ帰国して感じたことに大きなメッセージを感じたからだ。

「違和感があって3ヶ月くらい就職活動ができなかったんですよ。もう来月から旅の借金の返済が始まるので、働かないといけないんですけど、何もできなかったんです。GHTロスみたいな感じで。違和感がとってもありました。」

GHTでの日々がどれほど大きな影響を山口さんに残したのだろう。山口さんがその『違和感』について語るとき、少しの苛立ちのような感じがあるように思えた。
海外でしばらく滞在したのちに、あらためて日本の良さを再確認したという話はよく耳にするが、山口さんの場合はそれとは違っていた。

「12月に帰ってきてすぐ、東京かどこかで盲人の方が線路に落ちて亡くなったというニュースを聞いたんです。信じられなかったですね。白杖を持ってらっしゃるのに、誰も見てなかったのかと。そういう違和感です。なんで赤信号に、車も何も来てないのにじっと立って止まってないといけないのかとか。」

赤信号は止まれ。これは、道路交通法の『赤色の灯火の意味』という項目で定められている。たとえ、その横断歩道から左右数百メートルが見渡せて、虫一匹飛んでくる気配がなかったとしても、あなたはじっとそこで立ち止まって信号が変わるのを待たなければいけない。

「私は看護職で、高齢者の介護施設で働いてるんですけど、介護施設に入ってまで、なんでこんなに生きていかなきゃいけないんだろうって、ネパールに行く前から疑問に思っていたんですよ。お金で介護力を買って、なんのために生きるんだろうって。」

帰国したての山口さんにとって、ネパールでの当たり前が、『そうだった。日本ではそうではなかった』と、体が馴染むまでに少し時間がかかった。日本では、朝起きて一番に水を汲み行く人はほとんどいない。

年よりも若く見えますよ

訪日中のチェビさんも滞在を楽しみながらも、不思議に思うことがときおりあるようだと山口さんは言った。

「バスから降りるときに、『どうもありがとうございました』って、運転手さんが一人でずっと言ってるじゃないですか。みんなはICカードをピッてするだけで、黙って降りて行くのが不思議みたいでしたね。スーパーのレジで店員さんがピッてバーコードをかざすでしょ。いくつか同じ商品を買うと『同一ラベルです』ってずっと機械が喋ってる。店員さんがピッとかざすだけで『同一ラベルです。同一ラベルです。』って繰り返す。」

確かに、僕たちはそういうコミュニケーションに慣れすぎてしまっていて、もはやそこに違和感を感じることはない。あらためて、そうやって僕たちの社会を見渡すと、血の通っていないやり取りがあちこちで、ただ滞りなく、流れていってるのだろう。

「今思うと、私もネパールから帰ってきて、きっとチェビさんが日本に来て感じているのと同じような状態だったんですね。」

『日本の常識 世界の非常識』なんて言葉が流行った時代もあった。山口さんが感じた日本での違和感は、海外生活経験者にありがちな鼻につく日本や日本人批判とは違っているように思えた。物質的には決して豊かではない、何もないような場所での生活の中で感じた人間らしさや知性を、お金を出せばなんでも手に入るような自分の国でうまく見つけられないもどかしさからくる感情のように僕には思えた。それは、違和感というよりも、どちらかといえば寂寥感とでもいえるような、埋めようのない心の空白だったのではないか。

「私も含めて幼児化してるんでしょうね、大人が。とっても精神年齢が低いと思うんですよ。ネパールの人たちは寿命は短いですが、子供でもとっても大人びた言葉でのやりとりもできますし、顔も振る舞いも立派な大人のようです。私たちは、『年よりも若く見えますよ』って言われて喜びますが、それは生活体験が少ないから若く見えるんだと思うんですよね。だから、それは喜ぶべきことなのかどうかと思います。ただ寿命だけが長くなっているだけかもしれません。」

山口さんの指摘は、日本だけのことではなく、先進国と呼ばれる国の社会では多かれ少なかれ当てはまるだろう。しかし、思い出しておくべきことは、きっと僕たちの社会がずっと昔からこうだったわけではなかったということだ。今のようではなかった時代の社会が、何かを信じて一歩を踏み出し、そのあとに続いた世代がバトンを受け取り無心で走ってきた末にたどり着いた場所なのだ。それが、彼らの見た夢のとおりなのかどうかは、もはや知るすべはない。

一枚の地図

「日本はその時代に戻れないかと聞かれると、難しいのかもしれないなとは思いますね。帰ってきて、先進国ってなんだろうって考えましたね。ネパールのある村でお金を寄付したことがあったんです。村のみんなの前で贈呈式のようなことをすることになったので、のし袋もないし、どうしようかと悩みました。でも、裸でいいんですよ。『袋なんて必要ない、大事なのは中身だから』と言われました。それで、結局、裸銭をみんなの前で渡しました。なんて合理的だと思いました。そのとき、風呂敷文化はもういいかなと思いました。」

そもそも先進国って何について先に進んでいるんだろうって、僕は山口さんの話を聞きながら考えた。残念ながら答えは簡単には出そうになかった。いくつか答えのようなものを考えてみたが、それが本当に『先に進んで』いることなのかよくわからなかった。

「お金がなければ何も生活できないからですね、私も。彼らはお金なんかは関係ない。親密さと友情と良い話と、飲み食いできればそれでいい人生だとおっしゃってました。価値観が違いますよね。私はそちらの方が好きです。」

そう言って、山口さんは横で話を聞いていたチェビさんの方を見た。
チェビさんは、何の話をしているのかわからずキョトンとしていた。

こうして、山口さんのGHTは終わった後もまだ山口さんの中ではずっと続いているようだった。 山口さんは、テーブルの上に広げたネパールの地図を再び指差しながら僕たちに残りのルートの説明をしてくれた。

最後に、少し長くなるが、再び山口さんの旅の記録から引用させてもらってこのインタビューを終わりにしたい。
僕もネパールに行ってみたい。歩いてみたい。でも、少し怖いような気もした。この管理されたオートマチックな社会から、そうではない自由な何もないけど全てがあるような世界に踏み出す覚悟が僕にあるのだろうか。僕は、そう自問しながら目の前のネパールの地図を眺めた。

『私の手元に69cm×98cmの1枚の地図がある。GREAT HIMARAYA TRAIL-MAP (NP302 Himalayan Map House) アッパー・ルート、ローワー・ルートの標されたネパール全土の地図だ。モンスーンのイラム・タプレジュンから始まった旅の間、片時も放さず持ち歩いたので端々はスレ、折り目にはあちこちセロテープを貼り、文字も判読出来ないくらいになってしまった。これを破らないように注意深く開く時は、今でも胸が高鳴る。薄暗い民家で地図を開くと、どこでも大人も子供も一斉に寄って来て覗き込み、指さし、地図を囲んで離れなかった。何百人のネパール人がこの地図を覗き込んだことだろう。紙に染み付いたにおいが134日を鮮明に思い起こさせる。人生に於いて本当に必要なもの、大切なものは僅かだ。私にはこの一枚の地図が残れば良い。』

全3回終わり

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取材/2018年7月5日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/松岡朱香 写真/石川博己

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