Hikers

タフでやさしいおやつの時間

内田洋 1

image

ただ者ではないぞ

待ち合わせ場所は、福岡県福津市の福間海岸にあるカフェ。ハッピーハイカーズの取材で海に向かうのはこれが初めてだ。話を聞かせてもらうのは、あの、内田洋さん。前回の法華院ギャザリングでは、両腕にびっしりと入ったタトゥーが容赦なく目に飛び込むタンクトップ姿で「〜やさしいおやつ〜YAMABIKO」というかわいい屋号で焼き菓子を販売してくれたり、ハッピーハイカーズバーでは、20分のはずのプレゼンテーションはまったく終わる気配がなく、止むを得ず一旦中断していただき、急遽2部構成とし、合計2時間を超える熱いトークを展開してくれたり、ということで、僕にとっても忘れることのできない、あの、内田さんだった。

「高校を中退したと同時に家を出ましたので、すぐに何か仕事をしなければいけなかったんですよ。」

内田さんは、満面の笑顔で話を切り出した。僕は、そのはじまりを聞いて、「やはりただ者ではないな、内田さん!」と、妙にワクワクとした気持ちになった。駐車場に面した屋外のテーブル席で、内田さんの向かい側でやや身を乗り出し気味で話を聞いた。道を渡ったすぐ向こう側は海だった。

「勉強をするのが嫌で、そのかわりに自分で何かをしたくて高校をやめたんです。寿司職人になってみたいと思い、『こんにちは。働かせてください、住み込みで』って、飛び込みで寿司屋さんの扉を叩いて回りました。」

内田さんは、笑ってそう言った。 顔中をしわだらけにして笑う屈託のない内田さんの笑顔に、こちらもつられて笑顔になって頷いてしまう。

「中州の割烹料理屋さんが『いいよ、明日から来て』って言ってくれて。そこで弟子として修行をすることになったのが最初の職歴です。」

仕事の話から聞きたいと、僕は、お願いした。内田さんが仕事として写真を撮っていることを知っていたので、そこにいたるまでを聞いてみたかったのだ。

「料理の世界に入ると、すごくやり甲斐があったし、楽しくて、『これが自分のやりたかったことだ!』って思って取り組んでいたんですけど、何しろ若いし、遊びたい盛りなので親富孝通りなんかのライブハウスやクラブに通うようになったんです。夜遅くまで仕事した後に、さらにまた遅くまで遊んで、朝も早いからだんだんフラフラになって。仕事と両立できなくなってきたんです。」

そう言って、内田さんはまた顔をしわくちゃにしてニッコリと笑った。

「パソコン通信というのがその頃出てきて、やってみたくなったんですよ。早速、マッキントッシュを買ってパソコン通信を始めたら、『内田がパソコン持ってるらしいぞ、マッキントッシュ買ったらしいぞ』って友達の間で話が広まって。そしたら、いきなりライブのフライヤーを作って欲しいっていう依頼が来たんですよ。」

20年以上前の話だ。僕も同じ頃に中古のマックを友達から売ってもらってデザイン的なことを始めたという経験あるので、当時の感じは想像できた。パソコンを持っているということだけで、デザインができるって思ったり、思われたりした時代だ。ハードディスクの容量が500GBしかないそのマックが中古で30万円もしたことは、今からは想像もできない。

「パソコンでデザインができるってことさえ知らなかったので、驚きましたね。『え、これでデザインできるの?』って。勝手に自分の作りたいTシャツやステッカーをデザインし始めると、そのうちに慣れてスキルがついてきて、本当に人のイベントのチラシが作れるようになって、小遣いを貰えるようになったんです。これが、だんだんと料理の仕事よりも魅力的に感じるようになって。特に宣伝するわけではないですけど、作ったものを評価していただいて、どんどん横つながりで仕事が増えていって。なんて楽しい仕事なんだろうと思いましたね。19か20歳くらいの頃ですね。」

image

何をやっているんだろう

バブル崩壊後の何をやっていいのかが見えにくかった時代の二十歳前の少年にとって、自分で考えてやったことでお金がもらえるなんて、夢のような話だっただろう。同時に、銀行や証券会社まで破綻してしまうような社会で、それなら自分でなんとかやっていこうと思えたのはその時代の空気だったのかもしれない。

「ほとんどの広告には写真が必要なので、撮影をカメラマンにお願いするんですが、今度はだんだんそっちもおもしろく見えて来るんですよね。しかも、デザインはすごく時間がかかる作業なのに、カメラマンは来ると、パッて撮ってすぐ仕事が終わっていいなって。それで、見よう見まねで写真を撮り始めましたね。」

内田さんは、大きなレンズのついた2台のカメラと、それを持ち歩くためのハーネスを実際に装着して見せてくれた。それは、写真を撮るためというよりも、極秘のミッションを与えられた特殊部隊の装備のように見える。

「それまではデザインだけの仕事だったのが、写真も撮るようになると、広告の仕事を自分一人で完結するようになっていったんです。いろんなことをやらせてもらえるようにもなったし、仕事としても忙しくなりました。それはとても充実した日々でやり甲斐のある仕事だったんですけど、忙しくしすぎましたね。『自分は一体なんのためにやってるんだ』ってわからなくなってしまって。」

内田さんは、自分でも頷きながら話した。

「少し休んだほうがいいと思って、いただいているお仕事をすべてストップさせてもらったんです。しばらくは、ただ遊んで暮らすような感じでしたね。仕事もせず、スケボーして、ビール飲んでというような毎日を送っていました。でも、そういう自堕落な生活を続けていると、30歳になる頃に自分はこの人生で何をやってるんだろうと思うようになってきました。仕事も適当に辞めてしまったし、今までに良くしてくれた人達にも申し訳ないなと。このままだと自分は何にもならない、何かしたいなと思って、トライアスロンがしたかったんだと急に思い出したんです。」

唐突にトライアスロンという言葉が飛び出して、僕は一瞬、何か大事なところを聞き逃してしまったのかと慌てた。内田さんは、そのことには気づかずに話を続けた。

「中学生の時に、一緒に自転車に乗っていた友達と『いつか一緒にトライアスロンしようね』って言ってたんですが、その友達が病気で早く死んでしまったんです。それで実現できないままに、自分もすっかり忘れていて、そのときそれを急に思い出して、そうだ、一生に一回くらいトライアスロンをやってみようって思ったんです。」

何も聞き逃してはいなかったとわかり安心したが、それでもやはり、その決断というか、展開の飛躍に驚いてしまう。

「何をやればいいのか、どうしたらいいのか、もうだいぶ運動もしてない。まずは手軽に始められるランニングからやってみようと思って走り出しましたね、大濠公園を。それがアウトドアでのアクティビティーの始まりですね。」

思い立ったが吉日。これは内田さんのためにあるような言葉だ。事前に、色々と検索してみたり、人にアドバイスをもらったりという安全パイを取らずにとにかくやってみる、という姿勢が新鮮に感じられた。何でもかんでもまずはググってしまうことが習慣づいた耳には少し痛くもある。

image

カメラマン一本で

「ランニングにしっかり意識を向けて体を動かすようになって、自堕落だった自分の人生をもう一度作り直したくなってきたんです。走るというだけの些細なことなんですけど、そこから出会った気付きや吸収がすごく大きかったんでしょうね。興味が湧くことがありすぎて夢中になりました。走ることだけではなくて、身体のことや睡眠のこと、食べもののこと、人間のメカニズムなんかも含めて、生きることすべてにおいてが気になってきたんです。」

それまで体を動かしてこなかった人が、大人になって運動を始めたときによくある話の一つかもしれないが、ランナーには特に多いような気もする。僕もしっかりそんな一人で、35歳くらいでジョギングを始めると、食生活から仕事まですっかりすべてが変わってしまった。ただ、内田さんはその中でも圧倒的に極端なタイプとは思う。

「何にもならないようなバイト生活にも見切りをつけたくなった。自分がやりたいランニングをして、自分がやりたい仕事でお金を稼ぎたい。もっと言うと、走ることができる必要最低限のお金があればいい。そのために自分がやりたい仕事というものをやろうと思ったんです。それで、『写真だ!それも自分の撮りたいものを撮る、お金をもらえなかったらしょうがない、カメラマン一本でやってみよう!』って。それが30歳くらいです。」

その決意には、やっていけるという自信があったのか、売り込んでいけるという勝算はあったのだろうか。おそらく、そんなものはなかっただろう。とにかく、やってみたいと思ったことを自分に嘘がないようにやってみたかったのだと、僕は内田さんの笑顔をそう解釈した。

「最初に撮り始めたのは、スポーツをしている人の写真。種目は問わず、なんでも撮りました。野球、サッカー、ラグビー、テニスも。いろんなスポーツでがんばってる人たちを見ると、自分も勇気をもらうんですよね。人が一生懸命に何かをしていたり、打ち込んでいたりするところを横からそっと撮りたいなと思うようになりました。

もちろん、本人たちは内田さんを助けようとがんばっているわけではないが、結果的にその姿が自堕落な生活から内田さんを救った。
とはいえ、内田さんはその後ずっとカメラマンとして順風満帆というわけでもなかったという。

「カメラマンとしての変化もありました。ありがたいことなんですが、フリーランスなので、みなさん、いろんな仕事を依頼してくれるわけです。レストランをオープンするからとか、うちの娘の成人式をとか、バイクを撮って欲しいとか。いろんな依頼をいただいて、自分ができないようなことにもチャレンジして、できるようになっていくことはおもしろいんですけど、そういうものを受けているうちに、また何をやってるんだろうと思うようになってきたんです。これはやりたかったことなのかな?と思って。で、そういうものと葛藤しながら15年くらいやってきました。」

内田さんは、苦笑いしながらそう言った。
どうやら、内田さんの自問自答による手探りはもうしばらく続くようだ。

さて、今回は、内田さんのこれまでの生活や仕事についての話に始終したが、次回からはガッツリとアクティビティーの話をしていきたい。「やりたい!」という衝動に突き動かされて生きる内田さんのアクティビティーへの取り組み方は、やはりここでもただ者ではないようだ。

第1回終わり〜第2回へつづく

1234

取材/2020年6月6日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/松岡朱香 写真/石川博己

facebookページ 公式インスタグラム