Hikers

タフでやさしいおやつの時間

内田洋 2

image

2分で向いてないと思った

僕たちがいるカフェから道をへだてた向こうはすぐに海という、ハッピーハイカーズらしからぬロケーションで内田洋さんの話を聞かせてもらっている。前回は内田さんの半生と仕事についてうかがった。これからはカメラマン一本でやって行くことを決意した内田さんは、ほぼ時を同じくしてランニングを始めることになる。

「まずは大濠公園を1周走ろうと思ったんですが、たった2キロの1周が走れない。小学生のころでも走れたのに、運動していないとこんなに走れないんだとびっくりしました。」

そんなレベルからというと失礼ではあるが、内田さんのトレイルランナーとしてのイメージからするとほど遠いスタートではないか。 驚く僕を見て、内田さんはにっこり笑ってから話を続けた。

「なんとか1周走れるようになったときは嬉しかったですね。次はもう1周して4キロ走ってみたい、4キロ走れたらもう1周と増やして。でも、それが10キロに到達するまでには1ヶ月はかかったと思います。」

僕は自分がジョギングを始めたころと重ねて合わせうなずいた。ただし、僕の場合は、10キロ走れるようになるのにもっと時間がかかったし、その後は距離もほとんどのびていない。

「10キロマラソンに出ようと、友達を集めてエントリーしたんです。速い人はどれくらいで走るんだろうと調べてみたら、あたりまえですが、もうとんでもなく早いんですよね。無謀にも自分も彼らのように早く走ってみたいと、ガンガン練習を積んだんですが、すぐに故障しました。初めての10キロマラソンに出るころにはもう満身創痍ですよ。ボロボロになってドクターストップがかかるくらいの状態なのに、テーピングをガチガチに巻いて出ました。『あんた、今日走ったらもう走れなくなるかもしれないよ』って言われたけど、『もういいんです!』って言って。」

内田さんはそう言って笑った。
どれくらいのタイムを目指して練習していたのか少し気になったが、聞くのはやめておいた。
内田さんの言うようにとんでもなく早いのだろう。

「そんな気持ちで走った10キロマラソン。結果はたいしたことなかったんですけど、大会で全力を尽くして10キロを走りきれたことが嬉しくて、次はハーフのマラソン、さらにはフルマラソンも遠くないぞと思えるようになってきたんです。」

ここまでにどれくらいの期間がかかったのかを聞きそびれたが、一般的な話と比べるとあっという間だったに違いない。やはり、内田さんの持っていた体のポテンシャルが高いのだろうと、僕は勝手にそう決めつけて話を聞いた。

「でも、故障をくり返して、ずっと整骨院のお世話になっていました。するとある日、『故障多いですよね、あんまり舗装道路を走らない方がいいかもしれないですよ。山がいいらしいですよ』って言われたんです。よくわからないままに、とりあえず油山へ行ってみた。フルマラソンを走れるくらいの体力はできていたので、油山くらい走れるだろうとやってみるとぜんぜん走れない。たったの2分で向いてないなと思ったのが自分のトレイルランニングの始まりですね。」

その後、内田さんは油山に通うようになり、山頂まで走っていけるようになるころには、ロードを走らなくなってトレイルにシフトしていった。

「あとになって気づいたんですが、トレイルを走るようになって故障しなくなったんですよ。そういえばどこも痛くないって。」

以前この連載で話を聞かせてもらった福原さんも同じように話していた。
やはり、ロードとトレイルでは脚への負担の大きさがちがうのだろう。
僕自身の経験からもトレイルの方が負担が少ないということは納得できた。

「レースに出るようになったのは、トレイルランっていうのが浸透してきて、新しい大会があちこちで始まってきたころですね。やっぱりみんな想像以上に速くて衝撃的でしたね。それ以前に、山を走っている人がこんなに多いということにびっくりしました。」

内田さんは、目と口を大きくひらいて本当に驚いたという顔をつくって楽しそうに笑った。

image

細く長くより短くガツンと

「それから明けても暮れてもトレランって感じで熱中していましたが、特にメニューを立てて練習するということはなかったですね。とにかく山が楽しい。ハイキングして、ベースとなるところからランニングしたり、山を歩くことと走ることを一緒にやってましたね。」

ハイキングとトレランでは、歩くか走るかという移動のスピードの違いだけでなく、山で過ごす時間のあり方や経験の質も大きく異なってくるように思う。どちらがどうだということではなく、それぞれの方法によって得るものもあれば、その逆のこともある。そういう意味で、内田さんのように同時に取り組むというのは良さそうだ。

「ひとたびレースを経験してからは、参加可能なレースはなるべく出るようになりました。とはいえ、まだレースの数自体が少なかったので2ヶ月に1回くらいの感じでしたね。それからはどんどん増えていきましたけど、逆にレースへの興味が薄れていったんです。」

ハッピーハイカーズバーで内田さんが話してくれたときの、もうトレランのレースはこれで最後でいいやって思ったというエピソードを思い出して、僕はその大会のことに触れた。

「それは、ロードから始めた人もトレイルをバリバリやっている人もワーッて集まる大会だったんです。5人ひと組になってトレイルをリレーで競うという、ちょっと珍しいチーム戦の大会なんです。何百人という参加者が、同じところを走ってきては次の走者にタスキを渡すんですが、一人ずつのコースタイムの計測もやってくれていて、そこで1番になったんです。自分が得意だと思っていたところで1位になれたので、もうレースはこれで満足した、やめてもいいと思うくらいにうれしかったですね。」

どんなことがらでも1位になるというのは別格だ。
そこには2位や3位では見えない景色がある。
というのは僕の想像でしかないけれど、内田さんの笑顔を見ているとそれほど遠からずという気がした。

「一人あたり6キロくらいのすごく短い区間なんです。ダッシュです。そのときには、僕はダッシュが好きなんだなと思ってたんですよ。トレランの大会としては短いとされる八幡カントリーレースの24キロとかも好きなんですけど、でも、それよりも短ければ短いほど楽しめるということに気づいていました。」

実は長いレースの方が得意だっていうような話はいくらか聞くことがあったが、短いほうがいいという話は僕には珍しく聞こえた。

「長いのは得意じゃないです。ウルトラを目指したこともあったんですけど、途中からSUPが加わってきたので、細く長くということよりも短くガツンという方向にランも変わっていったんです。」

アクティビティーが増えたことによる取り組み方の変化と、SUPの性質によるものだと内田さんは付け足して説明してくれた。

image

SUP始まる

「SUPに出会ったのは沖縄に仕事で行ったとき。そのころは、クライミングもよくやっていたので、ある日仕事の後に、崖を降りていかなきゃたどり着けないようなシークレットポイントで一人でクライミングしてたんです。そしたら、その岩場にある小さなビーチに人がいたんですよ。歩いてはこれないところだったので、『どこから来たんだろう?』って思っていたら、その人がSUPに乗って海へと漕ぎ出していったんです。『うわー、そんな乗り物あるんだ!』と衝撃的でしたね。」

今となっては、誰でもSUPをやっているところの画像くらいは見たことがあるだろうが、何の予備知識もなく、人が大きなサーフボードの上に立って海へと去っていくところを見たら驚くだろう。

「調べると、それはスタンド・アップ・パドルボードっていう、立って遊ぶサーフィンで沖縄でも体験できると知ったんです。それじゃあやってみようと、すぐに電話をして次の日に行きました。それが初めてのSUPですね。」

「次の日」というところがいかにも内田さんっぽくて、僕はつい笑ってしまった。

「SUPとはそれが出会いだったんですが、そこまででいったん終わるんです。帰って福岡でもやってみたいなと思ったんですけど、どこにも売ってないんですよね。まだぜんぜん始まっていなかったんです。代わりに普通のサーフボードを買ってサーフィンをやっていました。」

<ロードランニング→トレイルランニング→クライミング→SUP(すれ違う)→サーフィン→SUP?>と、大濠公園から始まった内田さんのアクティビティーの足跡を追いかけ、僕は聞き込み捜査をする刑事のような気分でノートにメモを取った。

「サーフィン、トレイルラン、クライミング、この3種類をよくやってましたね。SUPのことはすっかり忘れてたんですが、ある日、海でSUPをやっている人を見て思い出したんです。そのころにはインターネットでも売られるようになってました。『よし!SUP買おう!』と、空気でふくらませるタイプのSUPを買ったんです。誰でも簡単に乗ることができるお散歩用のSUPだったんですが、SUPでとにかく遠くに行くというのが楽しくて満足でした。陸からは見えないちょっと先にこんなすごい崖があってとか、もうワクワクが止まらなくて。そのうちに、コーヒーやいろんなものを積んでいっては、長い時間海で遊んでいました。」

ずいぶん前にハワイでSUPをやったことがあった。
ワイキキから海を見て背中側にある山を越える方向にクルマで30分ほど走ると、美しいビーチのあるカイルアという小さな街があった。ワイキキの騒々しさとは対照的に、静かでローカル感の漂う、それでいてイケてるアナログレコードのショップがあるようなとても素敵なところだ。(今ではすっかりおしゃれタウンとして定着しているらしい)
僕たちは、その街にAirbnbで見つけた安いコテージを借りていて、そこから歩いてすぐのところにあったサーフショップでSUPをレンタルできた。
見よう見まねでなんとかSUPの上に立って、パドルを漕いで少し沖に出てあたりを見回すと、サーフィンやカヤックと比べて格段に広く見渡せる視線の高さに驚いたことを鮮明に覚えている。
内田さんのSUPの話が始まると、さっきから僕の心はハワイへと幽体離脱を繰り返していて、僕たちがカイルアビーチのカフェで話しているような気分なっていた。

「SUPは冒険する道具だと思うようになっていました。でも、あちこち行くうちにツーリングだけじゃなくて、それ以上のことを求めたくなってきた。そんな矢先に『そんなに漕げるんだったら大会に出てみたらいいですよ』って教えてもらうと、『大会あるんですかっ!出ます!』って、即答でしたね。」

内田さんはそう言って声を出して笑った。大会が大好きなのだ。

「どんな大会なのかとたずねると、海でSUPをこいで、バイクでひと山登って降りて、トレイルランで再びひと山登って下る。もうピッタリだと思って、そんな競技があるんだなと驚きました。これがカタチを変えて僕の前にあらわれたトライアスロンなんだと思いました。すぐにレース用のSUPとマウンテンバイクを買って、3種競技をするようになったんです。」

こうして、内田さんは彼のアクティビティーへの動機となった、トライアスロンへとたどり着いた。亡くした友人と中学生のときに交わした、『いつかトライアスロンに出よう』という果たせずにいた約束は、偶然と必然の両方に導かれ、それまでの経験をないまぜにするカタチとなって内田さんのもとへ届けられた。
同時にそれは、趣味や遊びという範疇を超え、選手としての海へこぎ出すことを意味していた。

こうして内田さんは意識的にトレーニングを開始することになる。
次回は、内田さんの選手としての取り組みについて聞かせてもらう。

第2回終わり〜第3回へつづく

1234

取材/2020年6月6日 テキスト/豊嶋秀樹 テキスト協力/松岡朱香 写真/石川博己

facebookページ 公式インスタグラム